どのように自分だけのクライアントを探すのか。

 

これはとてもよく聞く質問です。この問いかけをしない翻訳者は絶対にいないでしょう。私もこの仕事を初めてからすぐにこの事について考えるようになりました。そして答えを探すのに数年かかりましたが、それでも本当に正しい答えはわかりません。しかし、他の翻訳者と自分の経験を共有したいと思います。とても役に立つ情報だと思います。

 

この業界での新米者として翻訳者は仕事を探します。大手企業に直接問い合わせるほどの十分な経験がないため、他のプレイヤー、つまり翻訳事務所にアクセスします。最初のスタートとしては王道だと思います。しかし、最終目標は自分のプロジェクトと顧客をもつことです。翻訳事務所のために働くことは、経験を得る上では大きなチャンスとなります。また、翻訳サービスに対する企業の要求を把握することもできます。十分な経験を得た後は、会社に直接連絡してみるとよいでしょう。自分のコラボレーターのクライアントにコンタクトをとるのはフェアな方法ではないと私は強調しておきます(翻訳事務所と契約した場合には、その契約の中にクライアントとの直接的な連絡を禁ずる条項が含まれていることがほとんどであるため、この行為は避けたほうがよいでしょう)。他の企業を探してサービスを提供することをおすすめします。翻訳事務所と他の企業の両方のために働くことができます。インターネットを利用してクライアントを探すことが可能です。そしてその際に“誰が自分のサービスを必要としているのか”ということを考えなければなりません。

 

その答えは一般的に考えられているほど複雑ではありません。多国籍企業、輸入会社、外国に支店を持つ会社、外国企業の支社、弁護士などです。

 

多くの翻訳者はいくつかのネガティブな答えを得た後に失望するでしょう。他の者はこれらの企業に連絡しようとも思わないでしょう。なぜなら“これは大企業だから、重要な仕事は翻訳事務所に発注できるほどの十分な予算を使えるだろう。だから自分がメールを送ったところで意味は無い”と思うでしょう。インハウスの翻訳者を雇っている企業でさえ、翻訳を外注することがあるという事実を知るまでは、私も同じように考えていました。あなたの名前がそれらの企業のデータベースに登録されれば、案件を相談されるチャンスがかなり大きくなります。あまりにも分量が多い場合には、インハウス翻訳者への負担が大きくなるからです。プレゼンテーションや会議、マーケティングなど、クライアントは他にもすることが山程あります。仕事の量は一年を通して一定ではありません。そのため、短期間の間により多くの翻訳者を必要とすることがあるのです。

 

他の方法は、インターネットにアドレスを掲載したり、自身のウェブサイトを持ったりする方法があります。ウェブサイトの場合は投資するということになりますが、すぐに元を取り戻すことができるでしょう。翻訳者を必要としている会社や個人はインターネットを利用してあなたを探しています。あなたの存在に気づけば、連絡するでしょう。さらに、サーチエンジンにお金を払いサービスを利用することもできます。これを行った場合には、ウェブページの右側に自分のサイトが表示されます。たとえ、他の企業や翻訳者のウェブサイトへのリンクが表示されても、自分のサイトがスクリーンの右側で紹介されます。

 

クライアントから直接依頼を受ける他の方法は、ベストなサービスを提供することです。自分の仕事をしっかりこなせば、満足したクライアントはそのことを宣伝してくれるでしょう。そのクライアントはあなたのことを他のビジネスパートナーに紹介したり、あるいは新しいクライアントをあなたに紹介してくれるでしょう。そのため、どのような状況においても、翻訳者はプロとして行動しなければなりません。たとえクライアントのことを好きになれなかったり、仕事に対する十分な報酬を受けていないと思っている場合でも、そのような考えを持って仕事に支障をきたすようなことは避けなければなりません。

Nommo Translate – 言葉の障壁を取り除く

 

 

Nommo Translateアプリは、ユーザーが使用しやすいシンプルなインターフェースを通して異なる言語間で翻訳と通訳を提供するためにデザイン、開発されました。言葉の障壁を取り除くという試みにおいて、Nommo TranslateアプリはアンドロイドまたはiPhoneユーザーが利用できます。

浅い知識は常に危険をもたらすということを私たちは知っているように、メッセージを半分しか理解しないことは、相手を混乱させて敵対的な影響をもたらす原因になります。今では、ビジネスまたは観光のどちらであれ、違う言葉を話す人々とコミュニケーションをとる必要があります。そのため、多言語翻訳・通訳アプリが2つの異なる言語間のコミュニケーションギャップを埋め、言葉の理解プロセスを容易にさせます。

 

Nommo Translateは60ヶ国語異常を理解および翻訳する言語翻訳アプリです。Google Playからアンドロイドの無料アプリ、またはiTunesからiPhonesの無料アプリをダウンロードできます。

主な特徴は、 

  •     会話を翻訳する: このモバイルではユーザーが話し、好きな言語へ翻訳することができます。
  •     タイプされた文字を翻訳する: このモバイルではユーザーが左側に言葉を入力し、選択した言語へそのテキストを翻訳することができます。
  •     スキャンした文字を翻訳する: このモバイルではプリントされた画像をスキャンし、選択言語へとスキャン済みのテキストを翻訳できます。

このアプリによりユーザーは、

  •     外国語を選択言語へと同時通訳できる 
  •     言葉の障壁を乗り越えて世界中の人々とコミュニケーションをとれる
  •     好きな文書名で翻訳済みテキストを保存できる
  •     会話やタイピング、スキャン済みのテキストを通してすぐに翻訳できる
  •     通訳の2ユーザーモードを使用することにより、外国語を話し、ユーザーの言葉を理解しない人と円滑にコミュニケーションをとれる

Nommo Translateに訳文テキストを保存し、後に参照することが可能です。最大の正確さで言葉を翻訳する上でGoogle APIを利用することから、インターネット環境が必要となります。

英語を「自動貯蔵」できるレベルに達する

 ちなみに、言語の習得においても一般的な認識の原理  高レベルの内容が理解できれば、それより低レベルの内容はおのずと習得できるという法則が当てはまる。二次方程式を解ける人は足し算も簡単にこなせるのである。したがって最初からむずかしいものに挑戦すれば、それよりやさしいものについては自然に会得できるようになる。

 

 たとえば、私がドイツ留学の初期に習得したドイツ語は、大学での講義や討論に適した「ハイレベルなドイツ語」だった。日常会話とは相当な隔たりがあったが、それかおる程度の水準にまで達すると、日常会話のほうも自然に頭の中に入ってきて、完全に自分のものになる現象が生じたのである。

 

 だが、その逆、低レベルの内容に習熟しても、高水準のものを自然に会得することはありえない。

 

 当時、ドイツの韓国人留学生には、日常会話はある程度できるが、ハイレベルのドイツ語を自在にこなすことができないという特徴があった(彼らが中学生レベルの語学コースで、しかも韓国式の勉強法でドイツ語を学んでいたからだろうと思われる)。そのせいか、彼らは自分の書いた論文を「高度な」ドイツ語で書き直してくれるドイツ人学生と知り合いであるケースが多かった。

 

 初稿は自分が書き、それをドイツ人に推敲してもらうわけだが、みんなそれが当たり前だと思っているようだった。だが、いくら論文が完璧なドイツ語で作成されていても、最後の口述試験には本人が臨まなくてはならないのだから、ごまかしはきかないはずなのに、それでも以前から、こういうやり方でドクターを取得してきたのだからと、意に介するふうもないようだった。

 

 私の心配は現実のものとなった。案の定、口述試験で引っかかるか、通過しても条件つきであるケースが多かったのだ。口述試験にはもともと、その論文を本人が書いたものかどうかを判定する意味合いもあったから、そこで話される言葉が低レベルのものであれば、論文内容の信憑性を疑われるのは当然である。質問にまともに答えられないと、審査の教授たちはドイツ人特有の執拗さで最後まで詰問をやめない。学生はしどろもどろになって、絶句したりつっかえたり、聞き取れなくて問い直したり、冷や汗とともに、いままでの苦労が水の泡になる。

 

 しかも、彼らは自分の論文に関する想定問答を丸暗記していたから、途中でひとたびそのポイントがズレると、対策の立てようもなかった。その口述試験に落ちると、論文を別のテーマに変えて新しく書き直さなくてはならない。いうなれば、留学を初めからやり直すようなものなのに、そうした実情を聞いても、留学生たちは相変わらず、誤った方法を使いつづけるのであった。

 

 話が横道にそれたが、この第四ステップで現れる興味深い現象の一つが、「相手の英語水準やスタイルに自分の英語がついていくような感じになる」ことである。つまり、会話の相手が早口なら、いつの間にか自分も早口になっている。一語一語ゆっくりと、はっきり発音する相手には、おのずとゆっくり明瞭な発音を心がけている自分を見いだすようになるのだ。こういう状態になったら、こう考えればよい。

 

 「おれもついに、英語を『自動貯蔵』できる体質になったなi」

 

 英語が自動貯蔵されるとはつまり、相手の話す内容や言語水準や話し方などをすぐに理解し、それに自然に同調できるだけの力が身についたということを意味している。貯蔵されるのは言葉づかいや言いまわしだけではない。語彙や文章のパターンまでが自動的に理解でき、耳で聞き、目で見るほとんどすべての英語がすんなりと自分のものになる。「ああ、あんな状況のときには、あんな表現を使うのか」と思った瞬問に、そのとおりのことが自分の頭に入力され、さらに再現できるようになるのである。

 

 「言語習慣の転移」とても名づけたいこの現象は、じつは母国語についてもみられる。たとえば語り囗のおもしろい人がいるオフィスでは、いつの間にか、ほとんどの人がその話し方に染まってしまうことがある。それと同じことが、この第四ステップにおいて、あなたの英語にも起こるのだ。かなりハイレベルの英語力が習得できる段階といっていいだろう。

 

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

 

 

テレビドラマや討論番組も教材にピッタリ

 さて、この第四ステップで、映画以外に使用できそうな教材をあげておけば、登場人物が決まっていて、似たような状況がくり返されるシリーズもののテレビドラマなどもいいだろう。映画のビデオをある程度見たあとなら、こうしたものを活用するのも効果的である。その場合、アクションやスリラーものよりは、やはり日常生活を舞台にしたホームドラマのほうが適している。

 

 なぜならそこには、いろいろな年齢層の人物が登場するうえ、さまざまな日常生活のパターンが織り込まれており、現実の生活や家庭に起こるのとまったく同じ問題が生起するいっぼうで、まったく異なる葛藤も生じる。おまけに、その気になれば、それらを解決する方法まで学べるから、いろいろな意味で利点かおるのだ。むろん日常会話を学ぶのにも適している(ちょっと飽きがくるのが欠点だが)。

 

 こんな意見もあるかもしれない。

 

 テレビ番組なら、CNNニュースを聞くほうがいいんじやないか。最新の英語が聞けるし、時事ニュースにも明るくなる。話題もバラエティーに富んでいるから、語彙も豊富になるはずだ」

 

 一理ある話だが、この方法では、ニュース報道ふうの英語のクセがついて、何を話してもキャスターやレポーターのような言いまわしをしてしまう危険性がある。それに、短いセンテンスが主なので、長い文章を話す訓練ができないという欠点もある。

 

 私のノウハウの目標の一つに、自分の意見を少なくとも一分以上述べることができる英語力を備えるということがある。その点で、最適なのはトークショーや対論などの討論番組である。最初は基礎的なものから始めて、力がついたら本格的な討論プログラムを聞き取るようにすればいい。こうした討論番組では、自分の意見や主張を上手に表現する方法をもっとも直接的に学べるので、英語習得の目的がそこにあるのなら、初めから、それを活用するほうがいいかもしれない(ただ、やはり飽きやすいのが欠点)。

 

 高水準で格調高い英語を、おもしろく、ディベートふうに学びたければ、いわゆる法廷映両や法廷ドラマがいいだろう。緻密な論理を用いて分析し、結論を導き出す弁護士や検事の英語表現、豊富な語彙の駆使はたいへん参考になるはずだ。そういう英語に習熟したら、どんなアメリカ人も囗をそろえて、あなたの言語水準をほめてくれるはずである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

 

なにげない場面にこそ文化が宿っている

 しかし映画を見ながら、その背景に一国の文化を読み取るのはそれほど簡単なことではない。ストーリーを追うのに忙しくて、細部まで観賞する余裕がないことも、その理由の一つである。また、さまざまな場面に見られる彼らの日常生活の姿はたいてい非常に自然に処理されているので、とくにおもしろい場面でないかぎり、なかなか私たちの記憶には残らない。

 

 たとえば、小さな男の子が歯を磨いている背後で、父親が鏡をのぞき込むように出勤前のひげを剃っている場面などがそうだ。そのほほえましくも温かい印象によって、映画のタイトルは忘れても、そのシーンは多くの人の記憶に残る。あるいは、男と女が稲妻のように情事を交わしたあと、すぐにメガネをかけ直して残りの仕事にとりかかる場面なども、映画のストーリーには直接関係なくても、彼らの文化や生活が垣間見える印象深いシーンといえる。

 

 まさにこうした場面こそ、われわれとは異なる文化の一面を知らせてくれる格好のヒントとなるのだ。父と息子が洗面台の鏡を共有する場面は、彼らの打ち解けた親子の間柄を、稲妻のような情事のあとですぐに仕事に戻る場面は、彼らのセックスが日常化していることを教えてくれる。だが、そんなことをビデオを見ながらいちいち分析する必要はない。見ているうちに、自然に、理解できるようになるからである。

 

 同じ映画をくり返し見ていると、なんでもない平凡な場面が目につくようになってくる。たとえば、ベッドはたいてい寝室の中央に置かれていて、その枕元にはかならずスタンドなどが載っているコンソール(操作台)かおる。またベッドの左側には電話があり、それが夜中に鳴ると、たいてい女性のほうが目を覚まして取る。あるいはキッチンの調理台は壁ではなく、食卓のあるほうに向いていて、食卓を囲んだ家族と顔を見ながら対話できるようになっている、などである。、

 

 これらもまたアメリカ人の典型的な暮らしの姿、ありふれた生活の一片を映し出す情景といえる。

 

 また彼らは室内でも靴をはき、くつろぐときも、だぶだぶのスウェットパンツやパジャマといったラフな格好はしない。パーティーやディナーに出かける前には、シャワーを浴び、ひげ剃りなどをして身だしなみをもう一度整える。子どもたちが遊んでいる間、母親は近くのベンチに座って本を読みながらも、ケガをしないよう子どもを注意深く見守っているIそんなディテールに神経が届くようになるころから、映画を通じた文化理解が進んでいくのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

 

字幕なしで映画を見てはじめてわかるアメリカ文化

 

 私がアメリカ文化の洗礼を浴びた最初の映画は『ある愛の詩』である。この映画を見た

ころ、私はある女性との出会いに胸をときめかせている最中だった。オリバーとジェーンが出会い、恋に落ちるまでは私の経験とほとんど同じだったので、おおいに共感できたが、それからすぐに彼らがベッドを共にしたのには、ひどく驚かされた。

 

 「あれ? 彼らは何のためらいもなくいっしょに寝るんだ!」

 

 その当時、わが国では、「男と女がそういう関係になったら、当然、責任は男がとるもので、その方法は結婚である。男が責任をとれない場合、女性は悲恋の主人公になり、その男は天下の悪人として知人たちに非難され、自分自身も不幸になる」という考えが一般的だった。大学生の私でさえそうだったから、社会通念はもっと保守的なものであった。

 

 しかし、アメリカの若者はいとも気軽に一夜を共にする、そう知ったときのカルチャーショックはむしろ新鮮でさえあった。

 

 さらにショックを受けた映画はリチャードーギア主演の『愛と青春の旅立ち』である。将校になるために訓練を受ける士官候補牛の週末のパ土アイーに、その土地の若い女性が加わるだけではなく、訓練の期問中にもデートを重ねる場面は、実際に、韓国で将校訓練を受けた』とのある私には驚くべきものだった。私か士官候補生だった三か月間はほとんど囚人同然で、パーティーなど思いもよらず、最後の月に一度外出したのがすべてだった。しかも、その数時間の外出中に服にこぼしたコーヒーの香りを消すのに、夜通し苦労したものだったのだ。

 

 その後、アメリカの文化やライフスタイルを正確に理解するようになるまで、私はずいぶん長い時間を要した。ドイツでの留学生活がなかったら、おそらくもっと長くかかったにちがいない。

 

 その正しい理解ができてきたのは、やはり映画で、それも、それを「英語で」見るようになってからである。字幕で伝えられるセリフや演技だけを見ていては絶対に理解できないことがある。つまり文化的背景、彼らの生きる哲学や人生観のようなものまでが、私は、彼らのセリフが英語で聞き取れるようになってからは理解できるようになったのである。

 

 けっして、いい加減な気持ちからベッドを共にするのではなく、そこにも、彼らなりの行動基準があること。血縁や地縁は希薄でも、隣人や職場の仲問の間で、それに劣らない心のつながりかおること。親子の間柄は私たち韓国人のようにウェットなものではないが、合理的ななかにも、子どもを成熟した大人に育てるための教育的配慮が感じられること。彼らはひんぱんに出会い、また別れていくが、それが生に対する真摯な姿勢に基づいているため、その多くがよき友人として残っていくこと。そうした、さまざまな文化的示唆やメッセージを、私はアメリカ映画から「直接英語で」受け取ることができたのである。

 

 こういうと、次のように断ずる人もいる。「アメリカ映画には、自分たちの社会や文化を美化して描くことで、アメリカンウェイを世界に広めようというたくらみが隠されている。おまえはそれにまんまと乗せられているんじゃないのか」

 

 反論する価値さえない話だが、あえていえば、アメリカはがれかの号令にたやすくなびくような一元的な社会ではない。きわめて多様な価値観や人種が混交した社会であり、また、それが最大の財産となっている国だ。がりに、映画産業に従事する犬たちがだれかから「文化による侵略命令」を受けたとしても、彼らがそれに従う可能性はゼロに近い。彼らはただ、自分たちが儲かると思う映画をつくるだけなのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

日常生活を通じて言葉と文化の理解も深まる

 いたずらに危険視するばかりでは、その国の文化を真に理解することはできないものだ。また、いったんそれを理解できれば、恐れる要素など何もないことがわかる。そして、文化の埋解とは言葉をマスターしていくことで深まるのだし、その生きた言葉を学ぶには映画が最適なのである。映画を通じてその国の言葉と文化を理解すること。それがこの第四ステップの目的であり、また、その成果でもある。

 

 逆も真なりで、ある国の言語に精通するためには、その国の文化を十分に理解することが前提条件となる。たとえばクリントン大統領やビルーゲイツのアメリカ。自由の女神とハンバーガーのアメリカ。その程度の断片的で、表面的な理解では、英語という言語に溶け込んでいるアメリカという国の文化の真の姿を知ることはできない。

 

 はじめてアメリカを訪れたとき、私を案内してくれた韓国人ガイドは、アメリカでの生活が二十年にもなろうとするのに、アメリカ文化を韓国の社会規範に合わせてしか解釈していなかった。つまり、アメリカでは性が解放されているせいで男女関係が乱れており、離婚率もたいへん高い。その結果、欠陥家庭の出身者が多く、青少年問題が社会の安全を脅かしているうえ、黒人の差別問題もまだ解決されていない。アメリカとは体のあちこちが「重病にかかっている巨大な恐竜」だIそれが彼のアメリカ観であった。

 

 そして、自分の生まれた国がどれほどよい国かを強調し、ロサンゼルス暴動のときに自分の店さえ壊されなかったら故国に帰れたのだとため息をついていた。彼は最後に、私に向かって「祖国を愛しなさい」とつけ加えた。

 

 私はその話を聞きながら、心がひやりとするのを感じた。こうしたナショナリズムのにおいがする観念的な視点だけから他国をみていたら、文化理解などとうていおぼつかない。ある国、ある民族の文化をほんとうに理解するためには、言語もそうだが、お互いの文化的相違を客観的に見極め、それを認め合う態度がなにより大切だ。それでこそ、興味本位のエピソードや間違った情報に惑わされないですむことになる。

 

 他国の文化を理解しようとするとき、私たちに必要なことは、彼らが朝起きてまず何をし、会社でどんな会話を交わし、会議ではどんな議論が出て、昼食はどこでどんなものを食べるのかといった、ごくささいな、ありふれた日常生活の姿だ。その具体的な事実を通じて、彼らの文化の普遍性を知ることができる。するとどんな国でも、人間の思考や行動にそれほど大きな違いけないことがわかってくるはずである。

 

 たとえば欧米においても、だれもいない夜道では信号が守られないし、男女がはじめて会うときにはぎごちなさと喜びかおり、子どもに対する親の期待、都会におけるドライな人間関係と農村における情感あふれる近所づきあいなどは存在する。そこには私たち韓国人となんら変わらない、人間の普遍的な生活の姿が浮かび上がってくる。もし違いがあるとしても、それは本質的な相違ではなく、単なる様式の違いにすぎないのである。

 

 性の解放の問題にしてもそうだ。アメリカに比べれば、韓国の離婚率は低く、性犯罪も少なく、いっけん堅実な家庭が多いようにみえる。だが、ある女性団体が最近言及したように、わが国の都会の男性たちの婚外セックスの頻度は、先進国の例を追い越しているかもしれない。また離婚率が低いことは、かならずしも夫婦間の幸福を表すものではない。むしろアメリカのようにさっさと別れたほうが、あきらめ半分、偽り半分で夫婦の形式だけを守っていくよりは、より幸せな人生を送れるかもしれないのだ。

 

 ともあれ、こうした文化理解が深まれば深まるほど、私たちの英語力も日進月歩で向上していくのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

国内にいても生きた英語が十分身につく

 文化といっしょに言語を学ぶべきだといったが、国内でそれを習うかぎり、英語圏の文化を通じて英語を習得することは不可能ではないか  という意見もあろう。いっけん筋の通った考えだが、じつはまったくそんなことはないのである。同様に、外国語は幼少期に学ばないと(少なくとも十歳までにとが、いや七歳が限界だとか、いろいろな意見があるようだ)、その後、いくら熱心に勉強しても十分にマスターすることができないという考えもある。だが、これもやはり事実ではない。

 

 その国で育たなくても、また大人になってからでも、外国語の習得は十分に可能なのである。このことを実証した人に、トロイ遺跡の発掘で有名な十九世紀の考古学者ハインリッヒーシュリーマンがいる。一般的には信念の偉人とされている。しかし、若くして莫大な遺産を受け継ぎ、退屈しのぎで考古学に熱中するようになったという説もある。外国語習得ももう一つのヒマつぶしだったというのだ。

 

 彼はどうすれば、母国にいながら外国語をマスターできるかをじっくり研究した末、そのノウハウの開発に成功した。彼はそのポイントを私のノウハウと同じく、「赤ちゃんが言葉を覚える過程」にあるといっている。ここで告白しておけば、木書で紹介している私のノウハウはこのシュリーマンの方法を踏襲したもので、ぼかにも共通点が多い。もちろん相違点もある。シュリーマンは世界の多くの言語を包括するアルファベットの言語圏に生まれ、アルファベット言語を母国語として育ったため、そのノウハウもそうした環境を基礎として形成されている。アジアの漢字圏に生まれた私とは、その点て決定的に異なっているのだ。

 

 たとえばアルファペット文化圏の諸言語は、その構造や属性がたいへん似ているので、そのなかの一つをマスターすれば、あとの言語の習得にそれほど苦労することはない。実際、ヨーロッパへ行くと、イタリア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、オランダ語デンマーク語、スウェーデン語など、よく似た言語を一括して、自由自在に使いこなす人が少なくないのだ。シュリーマンも(私にはない)このアドバンテージを生かして言語の習得ノウハウを開発し、実際に二十二か国の言葉を―挨拶や簡単な会話程度にとどまらず―思いのままにあやつったという。

 

 このシュリーマン式ノウハウのなかで、わが国の人たちが苦手とするのは、二日に一時間ほど外国語の塾へ通って、積極的に言葉の練習をせよ」という点だろう。とくに、自分から積極的に外国語を話すということが韓国人にはなかなかできない。 私かドイツで会った留学生たちも語学コースでは「沈黙は金なり」とばかりに、うつむいているのが普通たった。なかには、クラスメイトの外国人がぞんざいな言葉づかいをするのが気に入らないといって、世問話すらしない人もいた(ドイツ語にも韓国語と同じように敬語やぞんざいな言葉づかいもあるが、彼らは人間関係の親密度によってそれを使い分ける。彼はそれを韓国流に理解していたので腹を立てたのである)。

 

 韓国人が人前で話をするのは、そうする自信がついてからのことが多い。それも人から求められてだ。頼まれもしないのに、人前で自分の意見を主張するのは陽譲の美徳に反するという文化があるからだ。これは母国語でも外国語でも変わらない。いっぽう、ドイツの子どもたちは、小学校からギムナジウム(大学進学前の中等教育)にいたるまで、授業時間にどれほど積極的に発表したかによって評価も異なってくる。

 

 これはドイツ国籍の韓国人が教えてくれたことだが、ドイツ人は幼いときからそのように教育されているので、自分の意見を積極的に述べるのをためらう人はまれだという。わが国では逆に、それを推奨するどころか、抑制する方向でしつけや教育を行ってきたのである。

 

 私の高校時代を振り返ってみても、手をあげて発表したのは、黒板で数学問題を解くときぐらいだ。教師が熱心に教えてくれるものをかたっぱしから覚えていけば、よい成績のとれる教育方法であったから、そこでは、話すよりも聞くことが極端に垂視されていたのである。そんなシステムの中で、外国語をはじめすべての教育を長さにわたって受けてきた人間が、外国へ行き、多くの人の前で積極的に意見を述べろ、しかも外国語でといわれても、それはうまくできるほうが不思議なのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より