私は玉子たちが好きです
清水義範の短編小説「永遠のジャック&ペティ」は、中年の読者にとってはとてもなつかしい作品である。中学校の英語教科書の主人公、ジャックとベティが50歳になってアメリカで再会したという場面設定である。早速、会話の箇所を読んでみよう。
「あなたはベテイですか」
「はい。私はベテイです」
「あなたはベテイ・スミスですか」
「はい。私はベテイ・スミスです」
「あなたはジャックですか」
「はい。私はジャックです」
「オー、何という懷しい出合いでしょう」
「私はいくらかの昔の思い出を思い出します」
「一杯のコーヒーか、または一杯のお茶を飲みましょう」
「はい。 そうしましょう」
行を追いながら、読者の「言語中枢」も2人の主人公におとらず「三十数年分退化」する。英語の教科書を知らない若い読者にも思いあたる点があるはずだ。もう少し引用してみよう。
「今、何時ですか」
「一時四十五分です」
「それは二時十五分前ですか」
「はい。 そうです」
「あなたは朝食には何を食べるのが好きですか」
「私はオレンジ・ジュースと、玉子だちと、ミルクと
バター付きパンと、豆腐のパイが好きです」
私自身の体験でも、英語の授業は教室の全員が独特の調子で声をそろえて教科書を音読にいささかバタくさい日本語に訳していく作業であり、他の教科とは異質でエキゾティックな香りがめった。ふつうの日本語では使うことのない「オー」とか「アー」などの感嘆詞、「いくらかの昔の思い出」「1杯のコーヒーか、または1杯のお茶」という不自然な表現を許容できる時間。これは英語の学習者が共有する妙になつかしい世界ではないだろうか。
ところで、上のベティの答えに原文で1ヵ所だけ傍点がついた箇所がある。それは「玉子たち」。複数を直訳したいかにも「ジャック&ベティ」的な!表現である。
「ジャック&ベティ」のような日本語
「遠くに家が見える」を英語に訳す場合、その家が単数なのか複数なのか、また特定のものか不特定のものかによって、
l can see a house.
l can see the house.
l can see houses.
l can see the houses.
(単数・不特定)
(単数・特定)
(複数・不特定)
(複数・特定)
の4つの可能性がある。 日本語では一般には複数を意味する標識はないが、単数か複数かまた特定か不特定かを無意識に判断できるメカニズムはなにか、と考えていたとき、NHKテレビの番組で「風たち」という表現を聞いて驚いた。
夏の家庭内でぃかに涼風を起こすことができるかというテーマの番組であったが、 それにしても「風たち」とは。 そういえば、「鳥たち」とか「お菓子たち」などもよく耳にする。「鳥たち」や「ねこたち」は生命をもつ動物の擬人化として理解できるが、「お菓子たち」からさらに「風たち」と自然現象まで一足とびに擬人化されてよいものだろうか。
山田敏雄氏は「犬たち」「獣たち」の成立について、「擬人法をささえる思想の変化による」と述べておられる(『ことばの履歴』)。「お菓子たち」や「風たち」が成立するためには、さらに根本的な「思想の変化」が背後にひそんでいるにちがいない。
ことによると、名詞に「たち」をつけるのは英語をはじめとする外国語の影響によるのかもしれない。「永遠のジャック&ベティ」という「サンドイッチたち」と「野菜たち」も登場する。現在の私たちも、思わずジャックやベティのような「日本語」を話しているのだろうか。
『英語表現を磨く』豊田昌倫著より