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無冠詞のねこ

 

 詩の世界から散文の世界へ。アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイに「雨中のねこ」と題する短編小説がある。原題ぱCat m the Rain'≒無冠詞単数の“Cat"は一風変わった用法である。俳句の英訳ならいざ知らず、アメリカ小説の題名としては非文法的なのでは、という疑問がわいてくる。もちろん、ヘミングウェイが初歩的な間違いをおかすはずはない。A catでもThe catでもない無冠詞のat。ここには積極的な作家の意図が秘められているはずだ。まず、話の梗概を簡単に述べておこう。

 舞台はイタリアのとある保養地のホテル。宿泊しているのはアメリカ人の夫妻。ある雨の日、部屋から外を見ていた妻が窓の下でうずくまっているねこを見つける。妻はメイドと外でねこをさがすが姿は見えない。部屋に帰った妻に夫のジョージは、ねこはどこだと尋ねる。妻は「ねこがほしい」と繰り返す。ジョージは耳をかさないが、そのときメイドが大きな三毛ねこをだいて入ってくる。

 作品中でぱA cat in the rain”と不定冠詞つきのねこが登場する。

(1)“There was a cat,”said the American girl.

   “A cat?"

     (「ねこがいたの」とアメリカの女性はいった。


     「ねこですって?」

     「ええ,ねこよ」

     「ねこ?」メイドは笑った。「雨のなかのねこ?」)

     〔il gattoはイ。ダリア語で「ねこ」の意味〕

 部屋に帰った妻はkitty (子ねこ)という語を使って、雨中のねこについてジョージに話しかける。

(2)“l wanted that poor kitty. It isn't any fun to

  be a poor kitty out in the rain."

     (「あのかわいそうな子ねこがほしかったの。かわい

     そうな子ねこが雨にうたれるなんてたまらないわ」)

 指示代名詞つきの“that poor kitty”は、彼女が屋外で見た特定のねこを意味している。彼女はさらに「ねこがほしい」と繰りかえすが、この箇所ではふたたび不定冠詞をもつa cat”となる。

(3)“Anyway, I want a cat,”she said. “l want α

  cat. I want a cat now. If l can't have long hair

  or any fun, l can have a cat.”

     (とにかく,ねこがほしいの)と彼女はいった。

      「ねこがほしい。いまねこがほしいの。ロングヘアにするとかなにか楽しみがないのなら,ねこぐらいほしいわ」)

 そして最後にメイドがかかえてきたねこぱa bigtortoise-shell cat"(大きな三毛ねこ)。ただし このねこが最初のねことおなじかどうかはあいまいなままに残されているが。

 夫妻の動作には顕著な特徴が認められるようだ。主人のジョージは常にベッドに寝そべって本を読み、妻は常に窓の外をながめている……。読書という屋内のジョージの世界と屋外での行動的な妻の世界。ここで示唆されているのぱ、夫婦の間の距離ないしは危機といったものであろう。

 0)で妻は「ロングヘアにするとかなにか楽しみがないのなら、ねこぐらいはしいわ」という。この“a cat”は彼女が最初に見た特定のねこではない。試訳では「ねこぐらい」としておいたが、これは必ずしも“a cat”である必要はなかろう。 “long hair” (ロングヘア)でも“adress”(服)でも“new shoes” (新しヽ靴)でもいいはずだ。満たされぬ心の欲求を解消するものであればかまわない。 ことによると、「雨中のねこ」は彼女がいだく願望の象徴なのではないか。

 ここまで考えてくれば、題名の“Cat in the Rain”の意味が鮮明になってくる。すなわち、

[―不特定][―特定]

 で示されるように、題名の“Cat"は不特定でも特定でもないいわば抽象化されたねこ、ねこに託された願望の対象にほかならない。日本語訳ではうかがうことのできないユニークな題名の設定である。

『英語表現を磨く』豊田昌倫著より