自己主張から始まる社会

 

 エミーのような子供たちが,小学校に入ると,まずクラスでさせられるのが, Show and tell. である。「この骨董品は,うちのおばが自慢のパイプで,メイフラワー号の……」という
調すで,クラスメイトに見せながら,語るのである。自己主張を鼓舞する社会であるから,学校のクラスも当然この種の授業が増える。

 私がアラバマのハンツピルで見た高校生の全国スピーチ・コンテストも印象的であった。

 全国から飛行機で集まってきた,高校生のためのスピーチ・コンテストは,まるで日本の高校野球のようにカラフルなものであった。

 2人制のディベー1・がまさにハイライトであったが,即興スピーチ(extemporaneousspeech)のコンテス}も同じく知的に興奮させるものであった。30分前に,3
つくらいのテーマ(時事問題が主)が与えられる。それに基づいて,準備をして10分ぐらい即興スピーチをやるのである。たとえば,パレスチナ問題,パナマ運河問題というばかでかい1
ヽピックをこなすのであるから,準備期間といえども丸暗記などしている余裕などなく,新聞,雑誌や専門分野以外の書物を読んだり,他分野のあらゆる人たちとも対話を通じて勉強し
ておかねばならない。まさに, risk-taking speeches である。

 更に驚いたことには,この即興スピーチ・コンテストも準決勝戦に近づくと,競合者同士が反対尋問のような,相手を困らせる質問を投げかけ,お互いの即興性を試すというのである
。スピーチでありながら,すでにディベートの要素を採り入れているのである。

 考えてみると恐ろしいことだ。彼らは母国語でスピーチ・コンテストをしているのである。日本では内容はあまり重視されない英語によるコンテストも多いが,母国語で自己主張をせ
まる教育カリキュラムを私は知らない。 NHK の青年の主張コンクールも,暗誦コンテストであり,内容は知的というより情的である。内容的にも議論を呼びそうなものはすべてプロセス
で除去され,当り障りのない薄められた内容のスピーチばかりである。すべて,お茶漬けの味である。これらはすべて, risk-avoiding speeches (リスク回避スピーチ)である。

 日本人は物真似は巧いが,創造性に欠けると欧米社会から常に非難されるが,パブリック・スピーキングの欠如とも関係がある。丸暗記と完璧性を目指す,日本という減点主義社会で
は,リスクをとらせてもらえないばかりか,質疑応答というgive-and-takeもない言いっ放しのスピーチしか存在しないーこんなところで思考が飛翔するだろうか。創造性が育つだろうか

 Conflict is opportunity. (衝突は好機なり)は,私のディベート教育論を支える根本哲学であるが,それは幼児教育から始めるべきだと思っている。

 私の英語教育論も,幼児の英語とは何かという言語そのものの実態に立ち入らねばならない。

『上級をめざす英会話』松本道弘著より