春のスピーキング

 

 学校で学ぶ英語は,後に挑戦するスピーキングの基本に当るので,敦科書英語といえどもおろそかにするべきではない。

 海外生活に恵まれなかった私払 囗本の先生方から日本語で教科・書英語を学んだものである。ただ学校英語に満足せず,それをバネにして外囚人を相手に応用したことはあったが,学校で学んだ文の5形式といった基本型は今でも役に立っており,これまで世話になった英語の先生方に対する感謝の念は忘れてはいない。

 日本の学校での講義は,だいたいdidactic instruction(教授法的アプローチ)が多い。ここでは,英語の文法や言語学といった英語に関する勉強ができる。だが,スピーキングは学べない。そこで,学校を離れた英会話学校へ行くか,それとも英語道場のような日本語がご法度といったフォーラムに参加するか,意思決定せねばならなくなる。

 いずれにせよ,学ぶことを本分とする春のスピーカーは,情報のインプッ1ヽのために話すわけだから,スピーキングは学ぶための一手段に過ぎない。だから, babytalkというtalkingも許されるのである。

 春のスピーカーが学校の授業では物足りないといって,英会話学校の門を叩いて英語を話しても しょせん初級英語に過ぎず,実践には役立たない。いやいかにペラペラであっても世間はそのtalkingの流暢さを賛美してくれても、まともには評価してくれないだろう。それでいい。春はベビー・トーキングでいい。ただたとえ「生意気だ」といわれてもいい,その気迫を貫き通したスピーカーは強い。夏になってから初段になる(モノにする)のが早い。

 初段とは,ようやく帯刀が許される時である。真剣の帯刀が許されたというだけで,まだ使えるというわけではない。本当に使えるのは2段からだろう。