行動を操る脳

 

 ロシアの新進の生理学者パブロフが、ノーベル賞受賞の対象になった消化腺の活動を研究していたときのことである。

 唾液腺の導管を頬の皮膚にぬいつけ、唾液の分泌が滴数ではかれるようにしたイヌが、いつも餌を貰っている小使の靴の音が近づくと、あたかも餌を期待するかのように、唾液をたくさん分泌していたのである。

 さすがは慧眼のパブロフである。靴音と唾液の分泌の奥にひそむ仕組みに目をつけ、餌を期待するという心の動きは、唾液の滴数によって測ることができるであろう、いや、脳が営むあらゆる心理現象は、客観的な生理的仕組みによって説明されるに違いない、と考えたのである。はたせるかな、その後三す年間にわたるたゆまぬ努力が、世にいうパブロフの条件反射学に結実したのである。

 人間をけじめあらゆる動物の行動には、神経系の成熟によって形成される行動ll本能的行動-と、成熟の基盤の上に、訓練によって習得された学習行動とがある。

 前者は、環境の変動の条件にかがありなく行なわれるもので、無条件行動といい、後者は、環境の変動の条件に対処し、それに適応するように学びとった行動であるので、条件行動(適応行動)という。そして、パブロフは、これらの行動の基礎に、前者に対して、無条件反射を、後者に対して、条件反射を想定したのである。

      イヌの口に餌をいれると、唾液をたくさんだす。イヌの脚に電撃を与えると、脚をひっこめる。このような自律神経系の反応や運動反応は、無条件的、反射的におこるので、餌や電撃を無条件刺激といい、それによっておこる反応を、無条件反応という。

 いま、イヌに餌をやる前に必ず、唾液の分泌とは関係のない、たとえばベルの音のような別の刺激(不関刺激)を与えることをくりかえしていると、イヌはベルの音をきいただけで、唾液を分泌するようになる。この揚合、ベルの音が条件刺激になって、条件反射が形成されたという。同じように、脚に電撃を与える前に光をつけることをくりかえすと、光がつくと、イヌは脚をひっこめるようになる。この二つの反応は。食餌(唾液)条件反射、防禦(逃避)条件反射とよばれ、一番基本的な条件反射である。

 唾液条件反射ができあがると(条件づけ)、ペルの代りにブザ、をならしても唾液がでる。このように、にた刺激が同じ反応をおこす(反応の程度は違うが)ことを、汎化の現象という。こんどは、ある音をきかせたときだけ餌を与え、別の音をきかせたときには餌を与えないような 操作を何回もくりかえしていると、先の音をきかせたときだけ唾液がでるようになる。これを分化の現象という。

 条件づけができても、条件刺激(ペルの音)ばかり与えて、無条件刺激(餌)を与えないと、唾 液がでなくなる。これを消去という。しかし、消去後ある時間がたってから音をきかせると、再び唾液がでてくる。従って、条件づけがすっかりなくなったのでなく、一時的に抑制されたのである。

 普通、条件刺激が無条件刺激のすぐ前か、同時に与えられたときに条件づけができるのであるが、条件刺激を与えはじめて一定時間たってから無条件刺激を与える操作をくりかえすと、条件刺激を与えても、しばらく反射は抑制され、一定時間たってはじめて反射がおこる(延滞条件反射)。また、条件刺激がおわって、一定時間の後に無条件刺激を与えるようにしても、同じような条件づけができる(痕跡条件反射)。

 さきの消去や分化の現象や延滞、痕跡条件反射は、反応がおこるのを積極的に抑制する仕組みが、脳のなかで働いているという意味で内抑制とよんでいる。そしてパブロフは、あらゆる条件反射は、興奮と抑制の組合せによって説明できると考えたのである。しかも、この二つの仕組みは、大脳皮質(新皮質)で行なわれており、ある部位の興奮は、まわりにひろがったり(拡延)、もとに集ったり(集中)、まわりに抑制をおこしたり(誘導)するという。たとえば、イヌで消去の実験をしているとき、イヌは途中で眠ってしまうことがよくあるが、内抑制が拡延したためだと説明している。

 なお、非常に強い精神的な刺激(ストレス)をうけると、せっかくできあがった条件反射がなくなってしまう。また、無理な分化を強制すると、動物はおちつきがなくなり、不安定な精神状態になる。人工的に作った神経症という意味で、実験的神経症という。

     パブロフの弟子のブイは、唾液分泌のほかに、自律神経系が支配する内臓器官の働き(胃や腸の運動、消化液や尿の分泌、心臓の拍動、血管の拡張、収縮など)を、条件反射でひきおこすことに成功した。たとえば、イヌにアドレナリンを注射すると、心臓の拍動がはやくなり、血管が収縮する。この注射をくりかえしていると、イヌが、とりだした注射器をみただけで、同じような反応がおこるようになる。このことは、内臓器官の働きが、脳の精神活動によって統御されていることをはっきり示している。

 またブイコフは、外界の刺激だけでなく、内臓の刺激も条件刺激になることを証明している。イヌの胃のなかにゴム球をいれ、気づかれないようにそのゴム球をふくらませ(条件刺激)、ひきつづいてイヌの前肢に電撃を与えて(条件刺激)、前肢に防禦反射による屈曲をおこさせる。そこで、この二つの刺激の組合せをくりかえしていると、ゴム球をふくらますだけで、前肢を屈曲するようになる。このような条件反射は、そのほかのいろいろな内臓の刺激で作ることができるのであって、内臓からでる信号が、脳の働きに影響を与えることを、はっきり証明した実験である。

 なお、これらの内臓条件反射は、さきに述べた条件反射の法則に従うが、その形成や消去にずっと時間がかかるという。

 ところで、私たちの瞳孔は、光でてらすと縮小するが、ベルの音と組合せて条件反射を作る と、ベルの音だけで瞳孔が縮小するようになる。それだけでなく、ベルという言葉をきいたり、文字をみても、あるいは、ベルということを思っただけで瞳孔が縮小する。ちIうど、梅干を思いうかべただけで、唾液がでるのと同じである。

 この場合、言葉は現実の感覚の信号(ベルの音)を代表し象徴しているわけであって、パブロフは、現実の信号を第一信号系といい、これに対して、言葉を第二信号系とよんだ。けだし、第二信号系は、人間だけの脳に具わる一番高級な精神活動系である。

     パブロフは、条件結合は大脳皮質で行なわれると考えた。すなわち、大脳皮質における条件刺激と無条件刺激に対応する興奮部位のうちで、無条件刺激に対応する興奮部位の方が勢力が強いために、無条件刺激に対応する興奮部位をひきつけ、その結果、条件刺激によって無条件刺激によると同じ反応がおこるようになるという。実験的裏付けのないあまりにも思弁的な考えである。

 その後、この考えはソ連で、大脳皮質の星状細胞や小型の錐体細胞などの介在ネフロンの働きをする神経細胞べ二つの興奮部位を結合するという方向へ発展した。そして、これを支持する事実として、サルキソフ笑A. Sarkisov)は、電気刺激によって大脳皮質のネフロンの樹状突起シナプスの構造が変形するという観察をあげている(18参照)。

 しかし、大脳皮質の二つの興奮部位の間に切れ目をいれて連絡をたっても、条件反射の形成には影響がないことがみられているし、また、聴覚野を切りとっても、分化の現象は作れないが、普通の条件反射は支障なく作れるという実験もある。従って、ソ連流に、条件反射の仕組みを、大脳皮質だけに求めることはできないことになる。

 そこで近年、脳波を指標にした研究がカスト、(H. Gastaut)と吉井によって進められ、条件反射の仕組みに対して、皮質下の構造の役割が強調されるようになった。その研究によると、条件反射の形成にあたって、まず、中脳網様体賦活系が働いて大脳皮質全体の活動水準が高められ。それにつづいて、広汎性視床投射系の働きによる濾過作用によって条件づけが成立する。そして、海馬や扁桃核などの大脳辺縁系は、条件づけられた大脳活動を全体的に調整するとい

 脳の仕組みの本質に即した新しい構想であるだけに、今後の発展が大いに期待されるわけである。しかし、この揚合の大脳辺縁系の役割を、視床下部を中心にした賦活の仕組みにおきかえて解釈すれば、もっと本質的な説明ができるのではなかろうか。

     動物と人間の行動を分析してみると次の二つの型にわけられる。一つの型は、知覚された外界の感覚刺激や内部環境の変化がそのまま動因になって発動される本能的行動である。もう一つの型は、それらの刺激が、過去の体験に即した思考、判断の過程をへの動因になり、さらに、目的にかなったように方向づけられながら発動される適応行動である。

 ここで問題になるのは後者の適応行動であるが、パヴロフは、条件反射の組合せによってす べての適応行動が形成されるといい、条件反射の原理によってその仕組みが説明できるとした。

 しかし、ネズミに、餌をうるためにテ=を押すという適応行動を学習させる場合を考えると、無条件刺激に反応して誘発された行動とは違い、積極的に行動をある目的に方向づける仕組みが働いている。この仕組みは、パブロフの条件反射の原理だけでは説明できないだろう。

 そこで、パブロフ流の条件反射を、古典的条件づけ、応答的条件づけといい、適応行動の学習を、操作的(オペラント)条件づけ、道具的条件づけといって区別している。

 ところで、私たちの行動を考えてみると、過ぎし日、の学習行動の集積の上で営まれている。従って、学習行動の基盤である操作的条件づけに研究者の関心が集るのは当然のことである。

 心っとも、操作的条件づけの問題は、はやくから心理学者の手によって、いろいろな操作や道具立てを考案して研究されていたのであるが、近年、脳の仕組みと関係づけて解明しようという機運がとみに盛んになってきた。すなわち、行動発現に関係する脳のいろいろな部位を刺激したり、破壊したり、あるいは脳波を同時記録したりして、その仕組みを神経学的に探究する研究であって、これが最近脚光をあびつつある行動科学あるいは実験行動学であ

 そして、この研究の進展によってはじめて、行動を操る脳の生理学的仕組みが解明されるはずであり、これこそ、脳生理学の究極の目標である。