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文章には「短文」と「長文」しかない

 

 形式面でまず重要なのは、「長さ」(文字数)である。

「何、が言えるか」は、与えられた字数に依存する。長さが内容を規定するのであり、内容が長さを決めるのではない。したがって、「どれだけの字数を使うことができるか」を、つねに意識している必要、がある。

 この点については、誤解している人が多いので、注意を要する。重要な内容であれば、それに相応したベーダが提供されるべきだ、と考えて卜る人がいるのだ。だいぶ昔のことだが、大学の紀要編集委員をしていたとき、制限字数を大幅に超える原稿を持ち込んできた人がいた。「執筆要領を守ってほしい」としう注意に対して、「重要な内容だから削れない」と言う。こういう人には、「自分で出版社をおこしてくれ」としか言いようがない。

 文章を長さで分類すると、つぎの四種類になる。

 (1)パフダラフ 一五〇字程度。

 (2)通常「短文」といわれるもの 一五〇〇字程度。

 (3)本格的な論文などの「長文」 一万五〇〇〇字程度。

 (4)「本」 ―五万字程度。

 文章の基本的な長さは、このように非連続的なのである。そして、一段階進むごとに、一〇倍になっている。この法則を発見したとき、われな、がら驚いた。

 (I)は文章を構成する基本単位であり、それ自体で独立した文書になることは少ない。また、(4)は複数の文章が集まったものだ。したがって、「ひとまとまりの独立した文章」ということになれば、二種類のものがあることになる。すなわち、一五〇〇字程度の「短文」と、一万五〇〇〇字程度の「長文」である。

 もっと印象的に言えば、「論述文には、一五〇〇字と一万五〇〇〇字という二種類のものしかない」ということである。多くの人は、「文章にはさまざまな長さのものがある」と思っているが、そうではないのだ。

 以下で述べるように、一五〇〇字と一万五〇〇〇字では、書き方が違う。したがって、「文章」の書き方を練習するのであれば、一五〇〇字の文章と一万五〇〇〇字の文章の各々をどう書くかを練習すべきである。ラディカルに言えば、それ以外の長さの文章を書く練習 をしても、あまり意味がない。少なくとも、自由な長さの文章をいくら書いても、作文の練習にはならない。

 後で述べるように、試験で要求される作文は(1)の長さ(一五〇字)であり、エッセイは(2)の長さ(一五〇〇字)である。また、学術論文は(3)の長さ(一万五〇〇〇字)である。したがって、作文の練習をするのであれば、目的に応じた長さの文章を書いてみるべきだ。

 なお、以上で述べたのは、あくまでも「基本形」である。だから、現実には幅がある。右に述べた基本形の半分からI・五倍くらいまでありうる。例えば、(1)は、八〇~二〇〇字くらいである。

 本書の場合には、つぎのようになっている。

 パラグラフは、右に述べた標準よりは短めで、平均してI〇〇字くらいだ。本書は一行四一字なので、二行から三行程度である。ただし、内容によってかなりの差がある。

 小見出しで括ったまとまりは、ほぼ一五〇〇字になっている(多くの場合に、それよりは若干短くなっている。「短文」にあたる。

 このまとまりを基本単位として構成されている。つまり、「短文」がいくつも集まって全体ができあかっている。多くの場合に、この基本単位を取り出してそれだけを読んでも、意味が通じるようになっている(逆に言えば、それより短いまとまりを取り出すと、それだけでは意味がわからない場食がある)。

 本書の「章」は、ほぼ一万六〇〇〇字となっている。これは、右で定義した「長文」の長さとほぼ同じである。もっとも、長さ、がそうなっているだけであり、章の内部が相互に関連した有機的な構成をなしているわけではない。本書の章は、短文の集まりにすぎなし。本書の全体は、約一四万字であり、右に「本が一互万字」というのより若干短くなってしる。

 なお、ピリナドで区切られるひとまとまりを、「文」(センテンス)と呼ぶことにする。文章は、文が集まったものである。

長文章法:野口悠紀雄著より