主述泣き別れシンドローム

 

つぎの文を読んでいただきたし。

(I)私の友人が昨年大変苫労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には、異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったため、データを交換することができす、非常に不便だったと述べている。

 これは、わかりにくい文だ。一度読んだだけですっと頭に入ることはないだろう。「……本は」のつぎに、パソコンが……」と別の主語が現れ、パソコンと本がどのように関連しているのかが、わからない。フ「ソコンが」以下も、ごたごたしている。

 わかりにくくなる最大の理由は、この文が複文であることだ。

 一般に、文は、主語、目的語、補語、述語などから構成される。一つの主語とそれに対応する述語(および、目的語、補語)しかない文を、「単文」という。完結している複数の単文を順に並べていったものを、「重文」という。これに対して、複数の単文が「入れす式」になったものを、「複文」という。

 記号的に表すと、重文は、

 (主語1、述語1)、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)となったものであり、複文は、

 主語1、(主語2、述語2)、(主語3、述語3)、述語I 

 主語I、平語2、(主語3、述語3)、述語I

のような構造のものである。つまり、複文においては、主語、目的語、述語、修飾語などの各々(あるいは。一部)が、文から構成されているわけだ(これらを「節」という)。

 文例(I)では、「友人が……書いた」という文が「本」を修飾し、これが全体としての主語になっている。しかし、その述語「述べている」が離れたところにあるので、読者は、「書いた本は」のところでペンディング状態になるわけだ。 これを、「主述泣き別れシンドローム」と呼ぶことにしよう。日本語は、欧米語と異なり、「主語、目的語、述語」の順に並ぶため、複文では主語と述語が隔たってしまうことが多い。つまり、「主述泣き別れシンドローム」が発生しやすいのだ(この点は、本節の最後でもう一度述べることとする)。

 複文を構成する節の相互関係は、すぐには把握できないことが多い。文例(I)では、各節を構成する文の主語がすべて異なるので、読み大小さらに混乱する。このように、複文はわかりにくい。また、わかりにくい文の大部分は、複文である。

 もっとも、複文であっても、頻繁に使われる表現なら、つぎに何か来るかを予想できるので、あまり大きな問題はない。例えば、「私か最も重要だと考えていることは、Aです」という文では、前半部分を読んだだげで、Aの位置に来るのは、書きすが重要と考えている内容であるうと、予想できる。

 文例(I)も、「私の友人は、昨年大変苦労して書いた本の中で……」と始めれば、つぎに来るのは本の内容であろうと推察できるだろう。

 主述ねじれシンドロームと主語述語失踪事件

 言うまでもないことだが、主語と述語は対応していなければならない。しかし、書いているうちに考之が別のところに移動してしまって、主語に対応しない述語が現れることがある。つまり、主語と述語が「ねじれてしまう」(または、「よじれてしまう」)。長い文章や複文でなくとも、この事故が発生する。例えば、つぎのように。その理由は、日本語の文法が特殊だからだ。

 正確には、「その理由は、日本語の文法が特殊なことだ」と言わなければならない。これを「主述ねじれシンドローム」と呼ぶことにしよう。

 「ねじれシンドローム」の特殊形として、主語が消えることがある。これを、T王語失踪事件」と呼ぼう。例えば、

私はこの部分が本書の最重要箇所だと思っているのだが、わかりにくい。において「わかりにくい」の主語は、「この部分は」(あるいは、「ここは」)であるはずだ。これは最初の文の節中文の主語として現れてはいるものの、正確には繰り返さなければならない。そうしないと、「私はわかりにくい」ことになってしまう。

 この例では主語は見当がっく。しかし、「友人が連れ去られるのを見ていた」となると、「見ていた」の主語が友人なのか、あるいは、(明示されていない)「私」なのかがわからない。

 述語が消えてしまうこともある。例えば、私の友人が昨年大変苦労して書いた本は、パソコンが普及し始めた頃には異なるアプリケーションソフトが共通のOSで動くようになっていなかったためデータを交換することができず、非常に不便だった。

 ここでは、述語が失踪している。書きすは、書いている間に主語が何であったかを忘れてしまったのだ。

 先に述べた「主述泣き別れシンドローム」の場合には、丹念に捜索すれば述語を見出すことができる。しかし、「主述ねじれシンドローム」、「主語失踪事件」、「述語失踪事件」となると、どこを探しても正しい主語す述語を発見することはできない。日本語は主語を明示しないことが多いので、こうした事件が頻発する。

 主語が示されたあと述語が現れないと、読者のストレスが高じる。そして、文章がねじれると、読者の頭の中もねじれる。私の観察では、文章が読みにくい原因の八割程度は、「泣き別れシンドローム」と「ねじれシンドローム」にある。逆に言えば、これらの症状に対処すれば、文章は格段と読みすすくなるはずだ。

   * この文は重文なので、最初の文とあとの文の主語が異なることが禁止されて卜るわけではない。そして、あとの文の主語を省略したのだと考えれば、絶対に間違いだとはいえない。しかし、明示せずに主語を変更したのは事実であり、適切な書き方とはいえない。** 原因はそれだげではない。「不便たった」の主語は、あえて言えば「利用することが」、あるいは「使用することが」、あるいは「その当時のパソコンは」であろうが、日本語ではこうした場合に、主語を意識しないことが多い。「暑い、暑い」、「いま五時だ」などの場合にもそうである。英語では、律儀にitと言うが、itとはいったい何を指しているのかと聞きたくなる。

長文章法:野口悠紀雄著より