文と文の関係を接続詞で示す

 

文と文との論理的な関係は、つぎのような接続詞を用いて、明瞭に示すべきだ。

◆論理を進める場合-したがって、だから、このため、それゆえ、ゆえに、かかるがゆえに、結局。

◆根拠を示す場合-なぜなら、その理由は、というのは。

◆論理を反転する場合-しかし、それにもかかわらず、だが、ところが、ただし、けれども、他方で。

◆話題を深める場合―実際、事実、そういえば、よく考えれば、さらに、たしかに。と闘う

 ◆同列の記述をする場合-つまり、換言すれば、言い換えれば。

 ◆話題を転じる場合-ところで、さて、一方、他方で、なお、では。

 谷崎潤一郎は、『文章読本』の中で、こうした接続詞の使用は控えるべきだとしている。同様の主張をする人は、他にも多い。文学では、たしかにそうだろう。しかし、論述文ではむしろ多用するほうがよいというのが、私の考えだ。

 書き手自身が文と文との論理関係を明確に意識していない場合には、右に述べた接続詞で文をつなごうとすることによって、初めて論理関係を意識することもあるだろう。

 なお、パラグラフの中で論理を反転する接続詞が現れるのは、望ましくない。これらの接続詞は、パラグラフの先頭に来るのがよい。

  *「叙述を理詰めに運ぼうとする結果、句と句の間、センテンスとセンテンスの聞か意味の上で繋かっていないと承知ができない。(中略)ですから、『しかし』とか、『だが』とか、『そうして』とか、『にも拘らず』とか、『そのために』とか、『そう云うわけで』とか云うような無駄な穴填めの言葉が多くなり、それだけ重厚味が減殺されるのであります」谷崎潤一郎文章読本』(前掲)。

** 三島由紀夫は、つぎのように言う。「『さて』とか『ところで』とか『実は』(中略)を節の始めに使った文章は、(中略)如何にも説話的な親しみを増しますが、文章の格調を失わせます」。ちなみに、三島のこの文は、「主語述語失踪事件」の典型的な見本になっている。


 どうすればよいか?(その2)代名詞を避ける、名前をつける

 「これは」「それは」では、何を指しているかわからないときもある。とくに、指示されているものが離れた場所にある場合には、誤解が生じる。

 若干うるさくなるが、元の言葉を繰り返すほうがよい。少なくとも、別のパラグラフの場合にはそうだ。確実に伝えたい場合には、同二言フグラフ中で直後に来る文であっても、繰り返すべきだろう。

 接続詞と同じように、こうした書き方は、文学では嫌われる。しかし、論述文ではむしろ必要なことだ。

 離れた箇所を引用する場合には、内容を繰り返さなければならない。しかし、何度も繰り返すとうるさくなる。そこで、主要な概念す主張には、名前をつけておくのがよい(「主述泣き別れシンドローム」のように)。こうしておけば、少なくとも同じ章の中では、いちいち内容を繰り返さなくてもすむ。

 なお、この場合の命名は、後での引用を容易にするためなので、必ずしも印象的な名前でなくともよい。ただし、第一種問題、第二種問題など、数字を用いる命名は避けるべきだ(内容がかがちにわからないから。私は、統計的検定論における「第一種過誤」と「第二種過誤」をいまだに混同する)。

長文章法:野口悠紀雄著より