独自の価値基準や倫理基準のない日本の科学界

 

 ワシントンのアパートで、日曜日の朝に、ソフアにひっくり返ってテレビを見ている。ハクラク家のテレビは4つのチャンネルしか入らないが、そのうち3つが日本では見かけない番
組を放映している。5チャンネルでは大きな会場に大勢の人が椅子に腰かけている。スーツの黒人のフレデリック・フライス牧師が、熱っぽく人生いかに生きるべきかを講演している。
宗教の時間なのである。7チャンネルも9チャンネルも宗教講演の放映である。毎週である。かなり力が入っている。会場に参加している人も多いが、家庭での視聴者もかなり多いと推
定できる。

 そういえば、オーストラリアのウーロンゴン(シドニ一の80 km南)に住んでいたとき、日曜日の朝になると、近所の教会に大勢の人が集まってきた。一方、文京区のわが家のまわ
りにお寺はたくさんあるけれど、日曜日に限らず“人生を語る”行事は見かけない。人々が集よってくるのは葬式のときだけである。日本社会では、学校を卒業してしまうと、人生の価
値観を語り合ったり、学んだり正したりする場がない。大人が人間的にさらに成長していける場がない。

 というわけで、「ヒトとチンパンジーの子」が科学的につくれるかどうかではなく、「そういう研究自体を社会が許容するレベルなのか、黙認するレベルなのか。熱望するほど研究し
てほしいレベルなのか」、研究者には伝わらない。こういう衝撃的な研究テーマをそもそもどう考えたらいいのか研究者にはわからない。どこに問い合わせたらいいのかわからない。科
学研究の倫理基準、その基準の根拠、制定するプロセス、守らせたり奨励したりを討議したり改訂したりするしくみがわからない

 トンデモ・アイデアから、未来予測まで、日本は、アメリカの動向-価値基準に“右にならえ状態がすっとつづいている。しかし日本人として、自分だけの価値基準に基づいてどのよ
うにバイオ研究を先導していくべきか、自分たちで判断すべき時がきているように思う。そのためには価値基準を自由に議論できるシステムが日本に必要である。

 もちろん、システムや考え方が日本にしか通用しないというのではマズイ。国際的にも通用しなくてはならない。価値や倫理を議論することなしには、もうどの国のバイオ研究も最先
端を走れないところまできている。価値基準や倫理基準が確固としていなくては、研究者はどこに向かって全力疾走していいのかわからないのである。

 欧米社会にあるように、日本社会にも、科学技術の価値と倫理を検討し、社会と調和をはかる組織がいくつも必要である。そういう組織の一角として日本の宗教界にもっと活躍しても
らいたい。

 ところで, 1998年4月3日、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に滞在していたのとき、ロサンゼルス市内のアパートでテレビを見ていた。すると、有名なバイオテク社会活動家であ
るジェレミー・リロフキン(J. Rifkin)が、「ヒトと動物とのキメラ生物をつくる製法特許を申請した」、とニュースで報じていた。ヒトとチンパンジーのあいの子づくりは実現しつつ
あるのだヨ。

エイズ基金のキャンペーンが10月1日木曜日にワシントンD.C.で行なわれる その週末の日曜日(10月4日)はワシントンD.C.で「エイズ行進」を行ない、寄付金を集めてエイズ
究を支援するという。テレビでそう宣伝している 一方、近くのスーパー・マーケット「フレッジューフィールズ」で、1日」は「5%の買物デー」という広告が大きくでていた。 5%引
きなら買いにいくゾ、と思っていたら、実は、5%引きではなかったのである。10月1日の「フレッシュ・フィールズ」の売り上げの5%を、エイズ基金として地元のウィットマン。
ウォーカー病院に寄付するというのだ。さすが建康食品を指向している「フレッシュ・フィールズ」である。日本でもど一ですか、イトーヨーカ堂社長さん、オタクでもやってみる?

不肖ハクラク著より