遺伝子は誰のものか?

 

  例えば、次のような話がある5)。カナダのトロント大学の遺伝学者ザーメルの率いる研究チームは力リフォルニアのスィークエナ・セラビューティック社から資金をもらって大西洋
に浮かぶトリスタン・ダ・クンハという小島にやってきた。なお、スィークエナ・セラビューティック社というのは、一発当てようともくろんでいるバイオベンチャー企業の1つである
。そして、トリスタン・ダ・クンハは世界で最も孤立した島”であり、1817年に移住した英国人の子孫がわずか300人、ひっそりと暮らしている、何の取り得もないような島だった。

 研究チームは300人しかいない住人の27O人から血液を採取したのである。なぜかこの島の住人の約半数が喘息もちなので、スィ一クエナ・ビュ一ティック社は彼らから喘息に関
係する遺伝子を見つけられると考えたのだ

 採取した血液サンプルをもとに、2つの遺伝子が喘息に関係していることまでわかってきた。そこまで研究が進んだ後、パタッと静かになった。特許をとるまですべての研究データを
秘密にし、共同研究もしないという。人間社会に知識を広めるよりも会社の利益が優先するというのである。研究者社会ではそれだけでも一論争ありそうだ。

 しかし、ここでは別の問題に焦点を当てたい。「その遺伝子は誰のものか?」、という問題である。トリスタン・ダ・クンハ島住民のものか?スィークエナ・セラビューティツク社の
ものか?世界中の人々のものか誰のものでもないのか?スィークエナ・セラビューティツク社は窃盗や搾取の罪を犯していないのか。こういう問題は誰がどこで議論すべきなのか?「バ
イオ」研究者が中心に行なうべきなのか。「バイオ」研究者はカヤの外でいいのか?

 また、別の問題として、研究の公開・公平・促進という科学研究者社会の良識をカネで踏みにじっていないのか?それとも、すばらしい発見・発明をもたらした企業として賞賛される
べきなのか?どうとらえればよいのだろうか?そして、あなたがスィークエナ・セラビューティツク社のバイオ研究者だったらどう行動すべきなのだろうか?会社の方針に黙って従うの
か?それとも、強力に研究を推進するのか?退社するのか?そして、あなたが喘息患者だったら、スィークエナ・セラビューティツク社に寄付してでも新薬開発を援助するのか?スィー
ケエナ・セラビューティツク社のやり方はかえって新薬開発を遅らせると抗議するのか?神のまねをしていいのか?

  もう1つ、別の例を紹介しよう。英国の生物学者であり倫理学者であるルイスとストローハンが「生物改造時代がくる」という本を書いている。 、最近その本を翻訳出版したのだ
が、とてもいい本である。「バイオ」研究の倫理的側面を冷静に分析していて、読者自身が「バイオ研究における倫理を考える方法」を提示している。

 問題は遺伝子操作によって生物を改造することの是否である。

 現代では、遺伝子操イ乍技術を使うことで、人間の意図した改造生物を容易につくれるようになった。例えば、ヒト・インスリンを合成するバクテリアをつくったのである。あたかも神
の行なう“創造”を、「バイオ」研究者が行なったかのようである。

 ライスとストローハンは、ここでの問題は大きく分けて2つあるという。1つは内在的問題で、そもそもそういう“神のまね”を人間が行なっていいのか、という問題である。もう1
つは外在的問題で、そういう“神のまね”をした結果、人間社会が得られる利益とこうむる害(安全性など)をどう考えるか、という問題である。

 そして、遺伝子操作に対して、日本では、大衆、マスコミ、知識人、政府、科学者のいずれも、反対意見のほうが上回っている印象である。

 レッシュ・ナイハン病の患者は、重度の神経障害と運動障害があり、自分の身体を傷つける傾向を示す。現在、有効な治療法がなく、患者は若くして死んでしまう。症状は悲惨で、ま
るで苦しみだけの人生だという。こういう病気なら、遺伝子操作でも何でも治せる可能性のある治療法を使うのに反対する人は少ないと思う。

 しかし、病気とは何であろうか?人間という生物個体の欠陥の1つであり、生物個体の不完全さの表明ではないだろうか?となると、現在、病気ととらえられていない生理機能でも、
もっとパワーアップしたいと思う人がいても不思議はない。先端「バイオ」技術を直接用いていないが、大多数の人々は、食事、運動、学習(学校、塾、読書、新聞)、娯楽などの“技
術”で、能力の優れた子供を育てたり、病気や苦痛の少ない幸福感に満ちた人間生活を営もうとしている。これが普通である。というより当然である。では、そういう目的に、「バイオ
」技術を使ってどうしていけないのだろうか?

 バチ当たりの不心得者なので、“神のまね”というほど大げさに考えなくてもいいという気がする。ただ、先端「バイオ」研究をドンドン押し進めると何でもできるかもしれないのだ
。例えば、あえて言ってみよう。人間の知能を支配する遺伝子はあるのか?犯罪者になりやすい遺伝子はあるのか?金持ちになれる遺伝子はあるのか?美人になれる遺伝子はあるのか?
老化を支配する遺伝子はあるのか?幸福感を支配する遺伝子はあるのか?そういう遺伝子があるかどうか研究していいのか?そういう遺伝子がもし見つかったら人間社会に役立てていい
のか?

 そして、結局、ライスとストローハンは書いている。「ほめられなければ科学研究は発展しない」と。だから、「バイオ」研究の倫理をはっきりさせて、人間社会がめざす方向を明確
にするべきなのだ そうすれば、研究者はその方向に向っで献身的な努力をしていくに違いない。研究者だって「ほめられたい」のである。

不肖ハクラク著より