英文論文の大半は一度も引用されない

 

    いままで主に物理学者の唱える研究倫理についてふれてきたが、「バイオ」の研究倫理でも実はかなり深刻な問題が表明されている。[バイオ]の実験研究をする際の
倫理について最近いくつもの著書が出版された。

 しかし、全体を論じることはしないで、身近なことを2つ取り上げたい。


どんな論文でも書かないよりはマシか?


 「研究費をなるべくたくさんもらって、予算は全部使い、なるべくたくさんの論文を書く」ことが、研究者の努力目標であり善である。このような絶対的な価値観が日本の[
バイオ]研究者を支配している。


 一方、友人であるアメリカ人研究者は、研究費はアメリカ国民の税金なので残れば残し、論文も自分が納得できるものしか発表しない。このアメリカ人と共同研究していた時
期がある そして、その友人から試料を送ってもらったり、友人が研究アイデアにも貢献してくれたので、友情のしるしもあって、ある時、論文の共著者になってほしいと伝え
た。ところが驚いたことに友人は、「自分を著者にしないでください」といってきた。論文への貢献度は大きくないし、自分が納得した研究ではないと言う。

 世界中で、毎年58万報の英文論文が出版される。ところが、ある調査によると、その半分は一度も引用されない、つまり研究の役に全く立っていないと考えられる。研究の
役に立っていないことは、即、人間社会の役に立っていないということである。

 となると、「どんな論文でも書かないよりはマシ」であるとか、「どんな論文も社会的善」、とはいえない。役に立たない論文を書いた場合、その研究に使った研究費と時間
のムダ、論文を発表するためのお金と時間のムダ、発表した論文の情報公害ともいうべき害、などを考えなくてもいいのか?という気がしてくる。研究者の間では「Publish or
Perish (論文を発表しないと罰がある)」がいままでのルールであったが、これからはr Publish and Perish (役に立たない論文を発表すると罰がある)」ことになっていくだ
ろう。また、研究費をもらっておいて研究成果を出さない(出せない)のも犯罪的ではないだろうか?さらにいうと、結果的に社会に役立たないそういう研究プロジェクトに研
究費を配分した省庁幹部と審査員は、返済される見込みの薄い企業に融資した銀行幹部のような[結果責任]を問われないのだろうか?このような責任を考えていくと、バイオ
研究者としてはいささか気が滅入る。しかし、いずれ考えなければならない大きな問題である。

不肖ハクラク著より