オーラルゲノムプロジェクト

 

  「それから、オーラルゲノムプロジェクトもおもしろい。形態形成で最もインパクトが強いんは、ヒトの場合、顔や。顔の造りがどーたらこーたら、人はずいぷんと気にし
はりますな。ところが、顔面の形態形成のメカニズムの研究は、いよまでほとんどやられてなかったんや。形態形成の問題として見ても、顔は複雑でいろいろ新しいことがわか
ってきそうや。いまトピックスや。例えばの話、上唇がさけている口蓋裂傷(クレフト・パラティ:cleft palate)ちゅうのがありますやろ。あんさんのお子がそうやったら、ず
いぷんと悲しみよすわなあ。その口蓋裂傷だけでも100以上の遺伝子が関与してて、研究面から見ると、複雑で、重要で、おおしろいんや」

 顔の造りも当然、遺伝子が支配している。そのうち、ハンサムな顔を決めるハンサム遺伝子が見つかってくるかもしれなし悒キムタクの顔の細胞を分析して、mRNAの発現パタ
ーンを調べてみる手かもしれない。美容整形も外科手術じゃなくて遺伝子導入でやるようになるかもしれない。


 セル・テラピー/ペイン/情報公開

  「もう1つ、セル・テラピー(細胞治療:cell therapy)って、知ってはる?遺伝子治療は知ってはると思うけど、遺伝子やのうて細胞を入れてしまうのや。その細胞もいろ
んな細胞に分化増殖できるもともとの細胞、つまりステム・セル(stemcells)やプロジェニター・セル(progenitor cells)を入れるんや。ケガしたときの骨の修復にも、遺伝的に
異常な組織をつくりなおすのにもええ。本人の細胞をとってきて使うこともできる」

 話がここまで来たとき、「ちょっと待っててな」といって、オフィスを出ていかれた。いつも開いているオフィスのドアのところに誰かが来たらしい。不肖・ハクラク、ドア
を背にしているので誰が来たかわからない。2~3分で戻ってこられた。

 「話が最後になるけど、いよまで分子レベルでの研究があまりされてなかったペイン(痛み)”もいよ脚光を浴びてるわ。痛みはふだんは感じないけど、人問生活で痛みは重
要や。例えば、歯がズキズ牛してたら、細かい仕事はでけへん。そこで、痛みの分子生物学が動き出したんや。痛みを人工的に起こさせて、何かレスポンスするかワどんな遺伝
子が発現するか?」

 先端的な研究上のトップ・シークレットみたいな話ばかりである。心配になって、「こんなこと話してもいいの?」つで聞いてみた。

 「ゲノムプロジェクト「ge冂ome pro」ect)ではな、情報を公開するんが大事なんや。個人が情報をかかえこまん、ちゅうポリシーやな。重要な問題は研究者のためにある
んやない。国民が困ってはるのを解決するんが研究者の仕事なんや。情報公開して、重要な問題を早う、効率よう解明するんが、国民のためなんや。情報公開がポリシーなんや
」とおっしゃった。ス、スバラシイ。さすが実力のある研究者は研究姿勢からして違う。重要なことをどんどん広報するのがポリシーだという。重要なことは外部に漏らさない
、というどこぞの国のポリシーとはまったく逆である。NIHのヨシはたいしたもんだ、不肖・ハクうク、改めて深く感動した。

聞くと、フォガティ・スカラーで来ているという

  夏の夕方、アパートでスパゲティーのソースをつくっていた。 、わが家ではシェフなのである。玉ネギとピーマンのみじん切りを油で炒めて、トマトピューレの缶詰のふ
たを開けようとしたとき、電話が鵈つた、

 [キマタです]という。「日本の牛マタです。10月3日までNIHにいるんです」という。おどろいた。ポンドに、おどろいた。プロテオグリカンの研究では日本の第一人
者というか、世界の牛マタ、というか、その人がNIHにいたとは。

 聞くと、フォガティ・スカう― (Fogaty Scholar)で来ているという。ス、スバラシイではないか。フォガティ・スカラーは世界の著名な学者をNIHに滞在させて, NIHの研
究者に、刺激・アドバイス・アイデアを与えるシステムだ。全世界を対象に毎年2名しか枠がない。アメリカ国内の研究者も有資格者であるが、招聘される研究者はどちらかと
いうと日本人とかユダヤ系外国人が多い。

 最近の日本人では、京都大学の本庶祐、京都大学定年後にシオノギ研究所に移った畑中正一が招聘されている。しかし、来るほうの立場からすると、日本を空けるのはなかな
か大変である。 だうたら喜んでくる(けど、マズ選んでくれないだろう)。

 フォガティ・スカラーは, NIHキャンパス内の丘の上の石造りの洋館、ストーン・ハウス(Stone House)に立派なオフィスをもっている(写真9-5)。「せっかくだから内部を見
てけ」、と木全さんがいう。で、喜んで訪問し、見せてもらった。

 黒人の召使いを10人は必要とするアメリカ南部の荘園風建物である。広大な農場主の娘スカーレット・オハうでも出てきそうな風情の歴史的な建物である。事実、執事風の
黒人が迎えてくれた。

 建物内のどこにいっでも、フカフカのジュウタンが敷いてある。オフィスの中に重厚なマホガニーの机、マ牛をくべる暖炉がある。別の机の上にコンピュータもある。木全さ
んが「見る?」つでウインクしたので、女性用トイレも覗いた。入ってすぐのところに豪華で大きな部屋があり、大きな鏡もある。木全さんがいうように、女性用トイレは確か
に「化粧室」であり「パウダールーム」であると納得した。

 ついこの間までのフォガティ・スカラーは、ストーン・ハウスを住居として使っていた。現在、それをオフィスとして流用しているので、各部屋にバス・トイレもついている
。オフィスはかつでの寝室だったのだ。そのころは、1階の食堂でフォガティ・スカう一が全員そろってディナーをしたという その晩餐会用の部屋も見せてもらった。そのな
りに大きな台所があって、まるで、マウント・バーノン(アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンが住んでいた大邸宅。現在は、当時の暮らしぶりがわかるように屐示して
ある観光名所)である。ところがコ韋い学者が一堂に会して夕食をとると、口論が絶えなかった、ということで晩餐会はやめになったんだ、といって木全さんはウインクした。
なお、木全さんは、「ストーン・八ウスにいるとストレスがたまる」という。それで、実験室のある30号館にポスドク並みの実験スペースをもらって、もっぱら30号館で過
ごしている。木全があーいった、木全がこーいった、と書かれては困る

  「フォガティ・スカラーの期間は、1年間だけど、1年問まるまる日本の大学を空けられないので、4回に分けて1回3ヵ月、4年間、來てるんだよ。今年が最後になるん
だ」、と木全さんはいう。また、NIHにあまり貢献できないので、国際会議を開くことにしたともいう、それがあと1週間後にあるそうだ。そういえば、NIHのあちこちに“国際
会議:病気における複合糖質とマトリックス分子(International Conference on Glycoconjugates and Matrix Molecules inHealth and Disease)”というポスターが貼っであっ
た。

  、木全さんを大学院生のころから知っている。木全さんは、メガネこそ老眼鏡に変わっだけれど、50代半ばでハゲてもいなければ白髪1本石ない。みんなに、[あんたは
苦労してないんだよ]と言われる、といってまたウインクした。

  その昔、ポスドクとしてNIHに初めてやってきたとき、アパートやら家具やらクルマやら、木全さんに全部めんどうみてもらった。挙げ句の果てに、荷物がまだ散らかってい
たアパートの部屋で、疲れてポーゼンとしていたアメリカ留学の記念すべき(?)最初の夜に、木全さんの奥さん(青葉さん、お元気9)が夕食をつくってもってきてくれた。
恩人である。

  ところで、本題である「バイオサイエンスの動向」を聞きたいといったら、「木全があーいった、木全がこーいった、と書かれては困る上とおっしゃった。学者肌なのであ
る。

 ワシントンに到着して少し落着いてから、「エエイ、ママヨ」とクラモチさんに電話した。

 「まだ來たばかりですから、バイオサイエンスの動向といわれましても、自分では、まだまっさらな状態です 大統領府とか国務省筋の行政の話しかできません。でもいらっ
しゃるなら、どうぞ。話の方は期待しないでください」。ほがらかな声に、マイルド感あふれた電話の応対だった。

 ワシントンには各国の大使館が並んでいる観光名所、通称“大使館通り”がある その“大使館通り”、つまりマサチューセッツ・アベニューの奥の方に日本大
使館がある。

 お訪ねした日、大使館内はひっそりとしていた。

 お会いしてみると、「マイルドないい方」の雰囲気をただよわせた爽やかなネクタイ姿の参事官殿であった(写真9-6)。メガネの奥で、目が二コニコしている。参事官殿が自
らコーヒーを入れてくれたが、クリームを切らしているという。不肖・八クラク、「ノープロブレム、サー」と答えた(マサカ0。バランスを欠いていました

  ます、大使館科学班の組織についてお伺いした。

  「科学班は庶務を入れて6名です。内訳は科学技術庁から2名。外務省から1名。

 専用調査員、いまは動燃から来てますけど、1名。アメリカ人で科学調査をする人、

 高級クラークつで呼んでますけど、その人が1名。それに秘書が1名です。これで6名ですよね。私の任期はだいたい3年です」

 199フ年6月18日着任というのに、お会いしたのは2ヵ月後の8月18日なので、着任後まだ日が浅い。「何でも構いませんから」ということで、科学研究の動向をどう見
ておられるのか伺った。

 「私は'89~'92年の3年間、書記官としてこの日本大使館にきていました。というわけで、帰国してから5年経ちます。5年間の変化をお話ししましょう」

 「当時は、日本の経済がとても強いときで、「NOといえる日本」という本が出たり、日米貿易戦争が盛んなときでした。科学研究でも、日本は基礎研究をしないで、研究成果を
応用することに力をそそぎ、うまく金儲けして、するい、という基礎研究タダ乗り論が盛んでした。そういうときはいつもNIHがやり玉に挙げられていました。日本人が常時
400人石いて、NIHで学んだことを日本にもって帰る。一方、アメリカから日本にくる大はわずかです 明らかにバランスを欠いていました。それで、日本も必死になって対応
して、ヒューマン・フロンティア国際プロジェクトを提唱したり、国際砠究交流を促進したり、国際フェローシップ制度をつくったりしました。論文も、アメU力から日本に大
ってくるだけで、日本からアメリカには流れない。それで、日本語の論文を英語に翻訳して流すなどのこともしました]

 「5年経ってみると、いまいったような日米間のタタ牛合いがほとんどなくなっています。日本側の努力もあるでしょうし、アメリカ側も経済力が回復して自信がわいてきたの
でしょう。ただここに、巖近でたNational日esearch Coし」冂cilのレポート2)があります。そこには、日米間の科学技術研究開発の諸問題は、現在騒がれていないけれど、問
題そのものが解消したわけではない。問題を忘れないように、と書いてあります]と最近でたレポートを見せてくれた。ページのあちこちに蛍光ベンで黄色い線が引いてあって、
相当勉強している様子である。

 [5年前との違いがもう1つあります。アメリカがアジアを意識しているということです。中国、韓国、東南アジアを意識しています。それらの国々に大きな市場があるという
ことがその背景です。アジアではまだ日本が中軸ではありますが、5年前と少し肌合いが違ってきています」 ここで、つくっていただいたコーヒーを頂戴した。

不肖ハクラク著より