言葉には「文化的な意味」もある

 英語で悩みや相談事を話していると、不思議に感じられることがある。韓国語で表現しようとすると複雑でむずかしくなってしまう内容のことでも、英語を使うと、じつに単純に伝えられるケースがあることである。ときには結論さえすぐに導き出せてしまう。これはいったいどういうことなのだろう。

 

 まず、その人の英語の水準が話の内容を十分に表現できるほど高くない場合かおる。たとえば、わが国の政治経済が停滞している要因を分析する場合、韓国語でなら歴史的、社会的な要因などを加えて多角的に分析することも可能だが、それを英語でやるとなると、おもにボキャブラリーの不足から、せいぜい「官僚主義のせいで」とか「権威主義がまだ残っているので」といった、単純な表現しかできないことが多い。

 したがって、その解決策も「社会の自律性を高め、民主主義的なシステムに変えること

が急務」いうことになり、そのためには「既存の幹部たちの変化は期待できないので、新

しい人材を大胆に登用することだ」という結論になる。じつに明快ではあるが、あまりに

正論、もしくは総論すぎて、はっきりいって、現実的な対策とはほど遠い(アメリカ人な

ら「オー、スマート」と皮肉交じりに感嘆してくれるかもしれないが)。

 

 また、言語的には同じ意味をもつ言葉であっても、それぞれの文化や社会の中で異なった解釈をされる場合が非常に多い。たとえば「官僚主義」や「権威主義」といった言葉は英語圏にも存在するもののもはや衰退の一途をたどっている過去の遺物というニュアンスがあるし、人々もそのことを前提に言葉を使っている。

 

 ところが韓国では違う。韓国語で表現されるこの二つの言葉は、いまでも「ほとんど越えることのできない巨大な障壁」といった意味をもつ。それで、「それらは早急に克服すべき対象だが、なんとも層が厚く膨大なものなので、抵抗する勢力も大きく、結局、改革は尻すぼみになることが多い」という説明も必要になってくる。これを英語でいうとなると、豊富な語彙と複雑な文章を使いこなさなくてはならない。こういうケースがじつに多いのである。

 

 だが、英語を正しく学ばなければならない理由もまさにここにある。言葉はつねに言語的意味のほかに、その文化圏の中だけで通用する固有の意味をもっている。いわば社会的・文化的意味である。韓国語では「大統領」はただ「最高位職の公務員のポスト」を意味するだけだが、英語の「president」には「大統領」「議長」「ホテルの名称」「高級自動車の名称」といった言語的意味のほかに、「もっとも権威あるもの、神聖なるもの」という社会的意味もある。

 

 そこでアメリカ人といえども、「あの大統領のやつはさ、あのときああしたけど……」などと、ぞんざいな口調で呼び捨てにしたりする例は少ない。不敬な気持ちになるからであり、だから彼らは、presidentという言葉自体もみだりには使わないのである。

 

 こういう例は非常に多い。したがって英語を英語圏の文化といっしょに学ぶことがきわめて大切になってくるのである。そうでないと、英語を韓国語の文化圏に合わせて使うという奇妙な事態におちいってしまう。すなわち、言葉のもつ社会的・文化的意味をまったく無視して英語を話すことになり、それは英語圏の人には、たいへん珍妙で不思議な英語に聞こえるのである。

 

 たとえば、「~しましょう」というとき、アメリカ人はよく「whay dont'you ~}とい

う表現を使う。否定形の構文なので、韓国人はこれを「なぜ、おまえは~しないのか」と

理解して、「おれはやらないといった覚えはないぞ」などと答えてしまう場合がある。そ

うかと思うと、アメリカではガソリンスタンドではなく「gas station」で車に燃料を入れるのを見て、「ああ、アメリカではLPガス自動車が大部分なんだ」と思ってしまうケース。こうした滑稽さは、要するに英語を韓国語に置き換えながら学んだ結果なのである。

 

 私自身にもこんな経験がある。ある国際学術大会に出席したときのこと、壇上で韓国の学者が発表中なのにもかかわらず、外国の学者たちは顔をしかめて同時通訳のイヤホンを耳からはずしてしまっている。休憩時間に、その理由をそれとなく聞いてみたところ、通訳の内容がヘンでまともに聞いていられないのだという。イヤホンを耳にしてみて、その理由がわかった。韓国人の同時通訳者は発表の内容にかかわらず、あらかじめ用意された英語の訳文を読んでいたのだ。

 

 たとえば、「私の考えでは、この問題を総体的にみないで、断片的に扱うところに誤りがあったようです」と、発表者は話しているのに、通訳は「誤りの原因は問題に対する総体的な分析の代わりに、断片的な考察を用いたところにあると思われる」というぐあいにである。これは単に英語を韓国語に置き換えているから起こるのだが、こんなややこしい表現を聞かされたら、頭が痛くなることもあるだろう。それが英語のプロであるはずの通訳者のしわざなのだから、英語を韓国語に置き換えながら学ぶことの弊害は予想以卜に大きいといわなくてはならない。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より