なにげない場面にこそ文化が宿っている

 しかし映画を見ながら、その背景に一国の文化を読み取るのはそれほど簡単なことではない。ストーリーを追うのに忙しくて、細部まで観賞する余裕がないことも、その理由の一つである。また、さまざまな場面に見られる彼らの日常生活の姿はたいてい非常に自然に処理されているので、とくにおもしろい場面でないかぎり、なかなか私たちの記憶には残らない。

 

 たとえば、小さな男の子が歯を磨いている背後で、父親が鏡をのぞき込むように出勤前のひげを剃っている場面などがそうだ。そのほほえましくも温かい印象によって、映画のタイトルは忘れても、そのシーンは多くの人の記憶に残る。あるいは、男と女が稲妻のように情事を交わしたあと、すぐにメガネをかけ直して残りの仕事にとりかかる場面なども、映画のストーリーには直接関係なくても、彼らの文化や生活が垣間見える印象深いシーンといえる。

 

 まさにこうした場面こそ、われわれとは異なる文化の一面を知らせてくれる格好のヒントとなるのだ。父と息子が洗面台の鏡を共有する場面は、彼らの打ち解けた親子の間柄を、稲妻のような情事のあとですぐに仕事に戻る場面は、彼らのセックスが日常化していることを教えてくれる。だが、そんなことをビデオを見ながらいちいち分析する必要はない。見ているうちに、自然に、理解できるようになるからである。

 

 同じ映画をくり返し見ていると、なんでもない平凡な場面が目につくようになってくる。たとえば、ベッドはたいてい寝室の中央に置かれていて、その枕元にはかならずスタンドなどが載っているコンソール(操作台)かおる。またベッドの左側には電話があり、それが夜中に鳴ると、たいてい女性のほうが目を覚まして取る。あるいはキッチンの調理台は壁ではなく、食卓のあるほうに向いていて、食卓を囲んだ家族と顔を見ながら対話できるようになっている、などである。、

 

 これらもまたアメリカ人の典型的な暮らしの姿、ありふれた生活の一片を映し出す情景といえる。

 

 また彼らは室内でも靴をはき、くつろぐときも、だぶだぶのスウェットパンツやパジャマといったラフな格好はしない。パーティーやディナーに出かける前には、シャワーを浴び、ひげ剃りなどをして身だしなみをもう一度整える。子どもたちが遊んでいる間、母親は近くのベンチに座って本を読みながらも、ケガをしないよう子どもを注意深く見守っているIそんなディテールに神経が届くようになるころから、映画を通じた文化理解が進んでいくのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より 

 

 

字幕なしで映画を見てはじめてわかるアメリカ文化

 

 私がアメリカ文化の洗礼を浴びた最初の映画は『ある愛の詩』である。この映画を見た

ころ、私はある女性との出会いに胸をときめかせている最中だった。オリバーとジェーンが出会い、恋に落ちるまでは私の経験とほとんど同じだったので、おおいに共感できたが、それからすぐに彼らがベッドを共にしたのには、ひどく驚かされた。

 

 「あれ? 彼らは何のためらいもなくいっしょに寝るんだ!」

 

 その当時、わが国では、「男と女がそういう関係になったら、当然、責任は男がとるもので、その方法は結婚である。男が責任をとれない場合、女性は悲恋の主人公になり、その男は天下の悪人として知人たちに非難され、自分自身も不幸になる」という考えが一般的だった。大学生の私でさえそうだったから、社会通念はもっと保守的なものであった。

 

 しかし、アメリカの若者はいとも気軽に一夜を共にする、そう知ったときのカルチャーショックはむしろ新鮮でさえあった。

 

 さらにショックを受けた映画はリチャードーギア主演の『愛と青春の旅立ち』である。将校になるために訓練を受ける士官候補牛の週末のパ土アイーに、その土地の若い女性が加わるだけではなく、訓練の期問中にもデートを重ねる場面は、実際に、韓国で将校訓練を受けた』とのある私には驚くべきものだった。私か士官候補生だった三か月間はほとんど囚人同然で、パーティーなど思いもよらず、最後の月に一度外出したのがすべてだった。しかも、その数時間の外出中に服にこぼしたコーヒーの香りを消すのに、夜通し苦労したものだったのだ。

 

 その後、アメリカの文化やライフスタイルを正確に理解するようになるまで、私はずいぶん長い時間を要した。ドイツでの留学生活がなかったら、おそらくもっと長くかかったにちがいない。

 

 その正しい理解ができてきたのは、やはり映画で、それも、それを「英語で」見るようになってからである。字幕で伝えられるセリフや演技だけを見ていては絶対に理解できないことがある。つまり文化的背景、彼らの生きる哲学や人生観のようなものまでが、私は、彼らのセリフが英語で聞き取れるようになってからは理解できるようになったのである。

 

 けっして、いい加減な気持ちからベッドを共にするのではなく、そこにも、彼らなりの行動基準があること。血縁や地縁は希薄でも、隣人や職場の仲問の間で、それに劣らない心のつながりかおること。親子の間柄は私たち韓国人のようにウェットなものではないが、合理的ななかにも、子どもを成熟した大人に育てるための教育的配慮が感じられること。彼らはひんぱんに出会い、また別れていくが、それが生に対する真摯な姿勢に基づいているため、その多くがよき友人として残っていくこと。そうした、さまざまな文化的示唆やメッセージを、私はアメリカ映画から「直接英語で」受け取ることができたのである。

 

 こういうと、次のように断ずる人もいる。「アメリカ映画には、自分たちの社会や文化を美化して描くことで、アメリカンウェイを世界に広めようというたくらみが隠されている。おまえはそれにまんまと乗せられているんじゃないのか」

 

 反論する価値さえない話だが、あえていえば、アメリカはがれかの号令にたやすくなびくような一元的な社会ではない。きわめて多様な価値観や人種が混交した社会であり、また、それが最大の財産となっている国だ。がりに、映画産業に従事する犬たちがだれかから「文化による侵略命令」を受けたとしても、彼らがそれに従う可能性はゼロに近い。彼らはただ、自分たちが儲かると思う映画をつくるだけなのである。

『英語は絶対、勉強するな』チョン チャンヨン著 (定価1300円)より