読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 なぜ「得意科目」でやらないのか?

 会社の経営者で、会社の経営と無関係な世界情勢や、抽象的な経済理論のことを書く人がいる。

 もちろん、それもいいのだが、なぜ経営の実体験に基づいたことを書かないのだろう?「日本人は農耕民族だから、アングロサクソン流の経済制度は合わない」とか「市場経済にはやはり限界がある」などということより、「私の会社はこのようにしてピンチを脱した」という話のほうが、ずっと説得力がある。そうすれば、どんな学者にも書けない迫力のある ものが書けるのに。

 社会人の学生の博士論文指導をしたことがある。論文の内容は、教科書の目次そのものだった。なぜ実務体験に即したテーマを求めないのだろう。そうすれば、指導教官より遥かに優れた論文が書けるのに。

 「エッセイは雑誌仁評論家が書いているようなものでなければならず、論文は教科書に書いてあるようなテーマを取り上げなければならない」という思し込みがあるようだ。しかし、しつけまったく逆である。評論家は実務経験、がないから、辛打をえず農耕民族や市場経済の話をしているのである。教科書に書いてあるのは重要な論文の内容をまとめたものだから、もう論文にはならない。論文になるのは、教科書に書いてないことだ。

 以上で述べたことは、「比較優位を活用せよ」ということでもある。比較優位は、どんな人心もっている。それをこそ発揮すべきである。

 もちろん、専門外のことを書きだしという気持ちはわかる。人間は、自分が弱い分野や不得意分野につ卜て書きたくなるバイアスをもっているようだ。「私は、経済学とか財政学とかいう無味乾燥なものしか知らない人間だと思われているようだが、そうではないぞ」と言いたくなるのである。私も、エッセイを書いていて、文学や音楽の話を書きたくなる。これはまことに楽しいものだ。しかし、それが所詮素人談義にすぎないことも自覚している。

 ただし、専門にとどまれば、専門外の人にメッセージを送ることはできない。自分の専門や経験を土台として他の問題を見ることができるかどうか、専門から出発して一般に通用する法則を見出しているかどうか。それが問題である。

 「窓から飛び出したい」とき

「締切りが迫っているのにメッセージが見つからない」ことは、日常茶飯事である。ついこの間は、こんな具合だった。

 新聞の連載コラムで、税の問題について書くっもりだった。数日かけて一応の草稿は作ってあり、それはすでにパソコンの中に入っている。しかし、どうもメッセージが弱い。内容が散漫で、迫力がない。要するに、「ひとこと言言えない」。それに、「こんなことは、誰もが言っているなあ」という気もする。

 締切りの前日、地方で講演会があり、完成稿を仕上げるためにノートパソコンを持参した。行きの便では、草稿を推敲する気になれなかった。何か別のメッセージはないだろうか?飛行機の窓の外を見ながら、考え続けた。しかし、浮かんでこない。せっかく重いパソコンを持ち歩いたのだからと思ったのだが、帰りの便でも、開く気になれなかった。

 羽田について、バスに乗った。まだメッセージが出てこない。一日中考え続けたというのに、駄目だ。結局駄目だろうか? アシモフは「窓から飛び出したくなる」と言う、が、私も

長文章法:野口悠紀雄著より