学術論文での引用

 

 学術論文においては、以上で述べたのとはまた別の意味で、引用が不可欠と考えられている。それは、論文の内容が思いつきす独り善がりでないことを示すことだ。これが、引用の第三の機能である。

 この意味での引用は、単なる「飾り」以上のものだ。すべての学問分野に共通することだが、新しい理論は、それまで積み重ねられてきた知見の上に築かれる。先行業績を無視した「独創理論」は、単なる独善的ドグマでしかない。したがって、学術論文の場合には、当該論考とそれまでの知見との関係を、引用によって示す必要がある。少なくとも、参考文献を明示しなければならない。それらがなければ、著者はその分野の素人とみなされる。

 旧ソ連の物理学者A・B・ミダダルは、「偽りの大発見」ぱつぎのような特徴をもっているので、簡単にチェックできると述べている。

「論文の著者は、問題となっている課題について専門教育を受けていない。

 この場合、「ゲーテが書いているなら、あなたが繰り返す必要はな卜だろう」と言う人はいない。必ず、「ほう、ゲーテも言っていることなのか」、「ゲーテが言っているほど深遠なことを、あなたも考えているのですね」と卜う反応になる。

 これが本来の機能だが、引用の機能はそれだけではない。しばしば、護身術として非常に重要である。つまり、弱者であるあなたは、強者である「引用」に守ってもらうわけだ。これが引用の第二の機能であり、この機能の利川は、権威主義的な学者を相手にするときには、必須といってよし。仮にあなたが何の引眉毛なしに手ぶらで出かけていったら、あなたの論考の内容がどんなに斬新でどんなに独創的であろうとも  否むしろ、斬新で独創的であればあるほど権威主義O先生にコテンパンにすられるだろう。しかし、あなたの後ろに先生より偉い権威が控えていれば、先生は決してす出し、ができない。

 つまり、「権力はないが頭は強いあなた」は、「権力もあり頭も強い権威」を用心棒として雇い、「権力をもっているが頭か弱い先生」に立ち向かうのだ。

 本当に優れた学者は、「すでに確立された権威」にひれ伏すのでなく、「将来において権威になるであろう論文」(つまり、あなたの論文である)を見抜く眼力をもっている。しかし、そうした学者は、残念なことに、暁天の星よりも稀有だ。あなたの先生が稀有な一人でないとは言わないが、天真爛漫に頭からそう仮定しないほうが、身のためである。

 一般に、用心棒を雇うには、かなりの出費が必要である。しかし、引用は、普通はタダでできる。こんなに安上がりでこんなに強力な護身術を使わない手はない。

長文章法:野口悠紀雄著より