科学者にも責任がある

 

    宇宙物理学者の池内了名古屋大学教授)は科学研究者の倫理観に鋭敏なセンスをもっている。

 池内は、阪神・淡路大震災で5500人以上の死者が出たその「結果責任」は、地震学者、都市工学者などにもあるとしている

 地震学者は、「関西には地震が起こらないという俗説」を否定せす、「地震予知が可能であるかのような幻想を人々に振りまきつづけ」、地震が起こったときの「現実的な防
災システムへの関与をほとんどしてこなかった」。都市工学者は、1989年のサンフランシスコ地震で高速道路の高架橋が落下したとき、『日本では絶対起こらない』とコメン
トし、「どのような建築物でも、ある限界を超えると倒壊するのは当然である」ことを示唆してこなかった(筆者・引用文を一部改変)。

 オウム騒動、[もんじゅ]と再処理工場の事故、薬害エイズなどの問題も根は同じで、「科学者は、専門家として尊重される立場のみに自らを固定したまま、そこで生じた問
題についての責任をとろうとしていない」、というか、日本では「科学者たちの責任が問われないシステム」になっている、と池内はいう。

 しかし、そういう「科学者が責任を問われない」時代は終わりつつある 現代は、科学者にも責任があるとする思想が拡がりつつある 例えば、世の中、「アカウンタビリテ
ィ(説明責任)」が求められ、「自己責任」が強調され、「研究評価」をしていこうという風潮である。

 科学者の倫理については、アメU力で原爆開発に加わった科学者の反省から、物理学者が敏感であった。ところが、現代では、原爆というような巨大な“悪”や“間違い”で
はなくて、研究者が社会の利益のためと思って精根傾けて行なったちょっとした研究成果についても、問題視されるようになってきた。

 例えば、物理学者の佐藤文隆京都大学教授)がD.クレップナー(マサチューセッツエ科大学教授)の文章を次のように紹介している駄

 自分が若かった頃、科学、科学者そして自然を理解するための探求、それらは何の疑問を差し挟む余地もなく善であった。ところが今では、ジャーナリスト、哲学者、政治家
、それに単なる科学たたきの連中の手に掛かると、科学も、科学者ももはや善ではない。肝心なのはそれが科学の誤川のことを言っているのではなく、科学自体の道徳性に関し
て言っているのである。自分が道徳性の檮(モラル・フェンス)の悪者側におかれていることを突然知って戸惑うしだいである

 そして、カナダ在住の化学者・藤永茂は「私たち(科学者)の有罪性は弁解の余地がない」と言いさっている

不肖ハクラク著より

遺伝子は誰のものか?

 

  例えば、次のような話がある5)。カナダのトロント大学の遺伝学者ザーメルの率いる研究チームは力リフォルニアのスィークエナ・セラビューティック社から資金をもらって大西洋
に浮かぶトリスタン・ダ・クンハという小島にやってきた。なお、スィークエナ・セラビューティック社というのは、一発当てようともくろんでいるバイオベンチャー企業の1つである
。そして、トリスタン・ダ・クンハは世界で最も孤立した島”であり、1817年に移住した英国人の子孫がわずか300人、ひっそりと暮らしている、何の取り得もないような島だった。

 研究チームは300人しかいない住人の27O人から血液を採取したのである。なぜかこの島の住人の約半数が喘息もちなので、スィ一クエナ・ビュ一ティック社は彼らから喘息に関
係する遺伝子を見つけられると考えたのだ

 採取した血液サンプルをもとに、2つの遺伝子が喘息に関係していることまでわかってきた。そこまで研究が進んだ後、パタッと静かになった。特許をとるまですべての研究データを
秘密にし、共同研究もしないという。人間社会に知識を広めるよりも会社の利益が優先するというのである。研究者社会ではそれだけでも一論争ありそうだ。

 しかし、ここでは別の問題に焦点を当てたい。「その遺伝子は誰のものか?」、という問題である。トリスタン・ダ・クンハ島住民のものか?スィークエナ・セラビューティツク社の
ものか?世界中の人々のものか誰のものでもないのか?スィークエナ・セラビューティツク社は窃盗や搾取の罪を犯していないのか。こういう問題は誰がどこで議論すべきなのか?「バ
イオ」研究者が中心に行なうべきなのか。「バイオ」研究者はカヤの外でいいのか?

 また、別の問題として、研究の公開・公平・促進という科学研究者社会の良識をカネで踏みにじっていないのか?それとも、すばらしい発見・発明をもたらした企業として賞賛される
べきなのか?どうとらえればよいのだろうか?そして、あなたがスィークエナ・セラビューティツク社のバイオ研究者だったらどう行動すべきなのだろうか?会社の方針に黙って従うの
か?それとも、強力に研究を推進するのか?退社するのか?そして、あなたが喘息患者だったら、スィークエナ・セラビューティツク社に寄付してでも新薬開発を援助するのか?スィー
ケエナ・セラビューティツク社のやり方はかえって新薬開発を遅らせると抗議するのか?神のまねをしていいのか?

  もう1つ、別の例を紹介しよう。英国の生物学者であり倫理学者であるルイスとストローハンが「生物改造時代がくる」という本を書いている。 、最近その本を翻訳出版したのだ
が、とてもいい本である。「バイオ」研究の倫理的側面を冷静に分析していて、読者自身が「バイオ研究における倫理を考える方法」を提示している。

 問題は遺伝子操作によって生物を改造することの是否である。

 現代では、遺伝子操イ乍技術を使うことで、人間の意図した改造生物を容易につくれるようになった。例えば、ヒト・インスリンを合成するバクテリアをつくったのである。あたかも神
の行なう“創造”を、「バイオ」研究者が行なったかのようである。

 ライスとストローハンは、ここでの問題は大きく分けて2つあるという。1つは内在的問題で、そもそもそういう“神のまね”を人間が行なっていいのか、という問題である。もう1
つは外在的問題で、そういう“神のまね”をした結果、人間社会が得られる利益とこうむる害(安全性など)をどう考えるか、という問題である。

 そして、遺伝子操作に対して、日本では、大衆、マスコミ、知識人、政府、科学者のいずれも、反対意見のほうが上回っている印象である。

 レッシュ・ナイハン病の患者は、重度の神経障害と運動障害があり、自分の身体を傷つける傾向を示す。現在、有効な治療法がなく、患者は若くして死んでしまう。症状は悲惨で、ま
るで苦しみだけの人生だという。こういう病気なら、遺伝子操作でも何でも治せる可能性のある治療法を使うのに反対する人は少ないと思う。

 しかし、病気とは何であろうか?人間という生物個体の欠陥の1つであり、生物個体の不完全さの表明ではないだろうか?となると、現在、病気ととらえられていない生理機能でも、
もっとパワーアップしたいと思う人がいても不思議はない。先端「バイオ」技術を直接用いていないが、大多数の人々は、食事、運動、学習(学校、塾、読書、新聞)、娯楽などの“技
術”で、能力の優れた子供を育てたり、病気や苦痛の少ない幸福感に満ちた人間生活を営もうとしている。これが普通である。というより当然である。では、そういう目的に、「バイオ
」技術を使ってどうしていけないのだろうか?

 バチ当たりの不心得者なので、“神のまね”というほど大げさに考えなくてもいいという気がする。ただ、先端「バイオ」研究をドンドン押し進めると何でもできるかもしれないのだ
。例えば、あえて言ってみよう。人間の知能を支配する遺伝子はあるのか?犯罪者になりやすい遺伝子はあるのか?金持ちになれる遺伝子はあるのか?美人になれる遺伝子はあるのか?
老化を支配する遺伝子はあるのか?幸福感を支配する遺伝子はあるのか?そういう遺伝子があるかどうか研究していいのか?そういう遺伝子がもし見つかったら人間社会に役立てていい
のか?

 そして、結局、ライスとストローハンは書いている。「ほめられなければ科学研究は発展しない」と。だから、「バイオ」研究の倫理をはっきりさせて、人間社会がめざす方向を明確
にするべきなのだ そうすれば、研究者はその方向に向っで献身的な努力をしていくに違いない。研究者だって「ほめられたい」のである。

不肖ハクラク著より

バイオテク世紀がくるのか?

 

  カリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャンパス内にアッカーマッスホールという大学生協みたいなところがある。そこの大きな本屋さんで、ジェレミー・リフキンの『ハイテク・
センテュUT』5)という本を見つけた。買おうとしてレジにもっていくと、40代の女性店員が[その本は今日入荷したんです]という1998年4月1日のことだった。

 その2日後の’98年4月3日、ロサンゼルスのアパートでテレビを見ていたら、前に書いたように、その本の著者ジェレミー・リフキンがニュースに登場した。「リフキン氏が、ヒ
トと勤物とのキメラ生物をつくる製法特許を申請した」と、テレビニュースで取り上げていたのである。さらにその3日後の’98年。 、ロサンゼルスから東京に帰ってきた。その帰
国便の機内で配られた日本経済新聞に、ジェレミー・リフキンのキメラ生物について、「日本でも特許出願へ」というタイトルの記事が目に飛び込んできた。

 ジェレミー・リフキンとは何者なのか?彼はワシントンにある民間研究所の所長である。科学技術(特に、コンピュータとバイオ)を経済問題や社会問題の面から分析し、政府や企業
コンサルタントを務める一方、10冊以上の著書を出版している社会活勤家である。

 ジェレミー・リフキンは「ハイテク・センチュリー」で何を問題にしているのか

 ここ20年ぐらいの聞に、遺伝子操作技術とコンピュータ技術が研究室から一般社会にでてきて、産業界だけでなく普通の人々の生活と人生に大きな影響を与えはじめている。このこ
とを[ハイテク世紀の到来]と人々が呼んでいるが、科学技術の発展と人間社会との擦り合わせが、きしみ出していることを問題にしているのである。たいした研究成果をあげていない
。自分の行なっている「バイオ」研究が人間社会にどのような影響を与えるのか、その方向の見定め方にとまどっている「バイオ」研究者は、自分の研究のビジョンとその研究成果の及
ばす社会効果をイメージしにくい時代なのである。

 問題の1つである[ヒトと生物の牛メラ]は前節でふれたのでそれ以外の点について述べてみよう。

NIHでのセクハラ講習会

 

「摩擦を恐れ、力を恐れ、物言わぬ」人間

  1998年夏にアメリカ・NIH客員研究員として滞在したとき、研究を始めてすぐに引き受け手であるNIHの研究部長が対処したことが3つあった。

 第1は、A4紙1枚にプリントされた10項目のルールである。

 部長がいうには、客員研究員の到着後1週間以内に、部長は客員研究員にNIHのルールを説明しなければならない。そして、[説明した旨および説明を受けた旨]の書類に部長と客員研
究員がサインをし、その書類をNIH本部に提出しなければならないという。

 その10項目の内容は、一部しか憶えていない。例えば、「研究室に子供を連れてきてはいけない。連れてくるときは上司の許可をとり、しかるべき安全対策を講じなくてはいけない
」とかがあった。また、「客員研究員はNIHでの研究に専念し、上司の許可なく研究以外の仕事をしてはいけない」とか、「NIHでの研究成果はNIHの許可なく外部に発表してはいけない」
とかもあった。

 第2は、セクハラ講習会である。

 研究部長は客員研究員にセクハラ講習会を受講させ、しかもセクハラ問題に対処する義務がある、というルールだ。これも10項目のルール表に載っていた。セクハラ講習会は、実は
、コンピュータで自己学習するシステムであった。NIH着任後1ヵ月以内に修得しなければならない 講習会の最後にテストが用意され
ていて、[80点が合格ラインだよ]と部長は言っていたが、85点をとることができた。その答案を所内便でNIH本部に送って講習会は終了した。

 余談だが、実は、1力月の期限までに後3日という日に、「以下の者はまだセクハラ講習会が終わっていない、早く講習を受けるように」というリストが部長経由でまわってきた。そ
のリストには2名の名前しかなく、1名は、ナント、私であった。 早速、 NIH本部の担当官に「答案をO月×日に所内便で送りました」と伝えた。すると、担当官から、「申し訳あり
ません。あなたの送付書類は紛失したようです。答案は結構ですから、得点だけご連絡ください」と言ってきた。

  第3は、セクハラと同じような受講義務で、内容はコンピュータのハッキング、セキュリティ情報管理についでであった。これも10項目のルール表に載っていたものである。セク
ハラと同じようにコンピュータ上で講習を受けた。

 そして、NIH研究所の廊下には雇用機会均等で問題があればNIH本部のホットラインに電話ください」とか、[実験勤物の扱いに問題を感じたらNIH本部496-5424に電話ください]とかの
ポスターが貼ってある。また、NIHの研究者同士がいろいろな問題について議論できる会がたくさんある。

 つまり、研究者社会の仲問同士が、研究者倫理について正面から話し合い、わかりやすい守れるルールをつくり、そのルールを広報し、学びあい、つねに改善していこうという勤きが
活発である。だから、アメリカの研究者社会では何がよくて、何がよくなくて、何が論争中である、ということがはっきりしていて精神衛生上八ナハダよろしい

 一方、日本はこういうことをまともに議論しない。なぜなのだろう。偉い人の権威とか、権力をもつ人の既得権益がおびやかされるからだろうか?フリー・ジャーナリストの柳井よし
子が指摘するように日本人は[摩擦を恐れ、力を恐れ、物言わぬ]人間になってしまったのだろうか?柳井よし子は次のように指摘する。

 現代の日本人は「困難や問題に直面したときに闘うだけの心の強さ、意思の堅固さもなくしつつある。立ち上がらなければならない時に、勇気をふるって立ち上がることもなくなりつ
つある

 これでいいのだろうか?その日本人の中にあって、「バイオ」研究者は物言わぬ傾向がさらに強いと思うのは思い過ごしだろうか

不肖ハクラク著より

独自の価値基準や倫理基準のない日本の科学界

 

 ワシントンのアパートで、日曜日の朝に、ソフアにひっくり返ってテレビを見ている。ハクラク家のテレビは4つのチャンネルしか入らないが、そのうち3つが日本では見かけない番
組を放映している。5チャンネルでは大きな会場に大勢の人が椅子に腰かけている。スーツの黒人のフレデリック・フライス牧師が、熱っぽく人生いかに生きるべきかを講演している。
宗教の時間なのである。7チャンネルも9チャンネルも宗教講演の放映である。毎週である。かなり力が入っている。会場に参加している人も多いが、家庭での視聴者もかなり多いと推
定できる。

 そういえば、オーストラリアのウーロンゴン(シドニ一の80 km南)に住んでいたとき、日曜日の朝になると、近所の教会に大勢の人が集まってきた。一方、文京区のわが家のまわ
りにお寺はたくさんあるけれど、日曜日に限らず“人生を語る”行事は見かけない。人々が集よってくるのは葬式のときだけである。日本社会では、学校を卒業してしまうと、人生の価
値観を語り合ったり、学んだり正したりする場がない。大人が人間的にさらに成長していける場がない。

 というわけで、「ヒトとチンパンジーの子」が科学的につくれるかどうかではなく、「そういう研究自体を社会が許容するレベルなのか、黙認するレベルなのか。熱望するほど研究し
てほしいレベルなのか」、研究者には伝わらない。こういう衝撃的な研究テーマをそもそもどう考えたらいいのか研究者にはわからない。どこに問い合わせたらいいのかわからない。科
学研究の倫理基準、その基準の根拠、制定するプロセス、守らせたり奨励したりを討議したり改訂したりするしくみがわからない

 トンデモ・アイデアから、未来予測まで、日本は、アメリカの動向-価値基準に“右にならえ状態がすっとつづいている。しかし日本人として、自分だけの価値基準に基づいてどのよ
うにバイオ研究を先導していくべきか、自分たちで判断すべき時がきているように思う。そのためには価値基準を自由に議論できるシステムが日本に必要である。

 もちろん、システムや考え方が日本にしか通用しないというのではマズイ。国際的にも通用しなくてはならない。価値や倫理を議論することなしには、もうどの国のバイオ研究も最先
端を走れないところまできている。価値基準や倫理基準が確固としていなくては、研究者はどこに向かって全力疾走していいのかわからないのである。

 欧米社会にあるように、日本社会にも、科学技術の価値と倫理を検討し、社会と調和をはかる組織がいくつも必要である。そういう組織の一角として日本の宗教界にもっと活躍しても
らいたい。

 ところで, 1998年4月3日、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に滞在していたのとき、ロサンゼルス市内のアパートでテレビを見ていた。すると、有名なバイオテク社会活動家であ
るジェレミー・リロフキン(J. Rifkin)が、「ヒトと動物とのキメラ生物をつくる製法特許を申請した」、とニュースで報じていた。ヒトとチンパンジーのあいの子づくりは実現しつつ
あるのだヨ。

エイズ基金のキャンペーンが10月1日木曜日にワシントンD.C.で行なわれる その週末の日曜日(10月4日)はワシントンD.C.で「エイズ行進」を行ない、寄付金を集めてエイズ
究を支援するという。テレビでそう宣伝している 一方、近くのスーパー・マーケット「フレッジューフィールズ」で、1日」は「5%の買物デー」という広告が大きくでていた。 5%引
きなら買いにいくゾ、と思っていたら、実は、5%引きではなかったのである。10月1日の「フレッシュ・フィールズ」の売り上げの5%を、エイズ基金として地元のウィットマン。
ウォーカー病院に寄付するというのだ。さすが建康食品を指向している「フレッシュ・フィールズ」である。日本でもど一ですか、イトーヨーカ堂社長さん、オタクでもやってみる?

不肖ハクラク著より

将来飛躍する科学技術とは

 

    「空想科学小説みたいなバカげた話をバイオ研究にもちこむな」という、読者もいるかもしれない。そこで、権威のありそうな最新の本をさがしてきた。『今後20年間に科学
技術は人間生活をどう変えるか』という1997年出版の本である。298ページもの英語の本である。そこでは「エネルギー」、「環境」、「食料」、「コンピュータ」、「材料」、「医学」、「宇
宙」、「交通」など、11分野85項目につい成するのか?」と心配になる。自分の知らないとこかの天才が革命的な発見をする、と考えればいいかもしれないが、実際にはそういう人が天
から降ってくるわけじゃない。あなたとか、あなたの周囲にいる研究者とか、隣りの席で鼻くそをほじくっている大学院生とか、口を開けてうたた寝しているやつとかがやることになる
のである。

 しかし、 「誰がやるか」は実はそれほど心配していない。十分な研究費と優秀な協力者がいれば、画期的な発見一発明の1つや2つ、こなしていく自信はある。そういう研究テーマ
の難度や研究費や人材という問題は本質的な問題だと思っていない。そういう問題とは全く別に、研究を困難にする大きな問題があるのだ。その大きな問題とは、そういう画期的な研究
を日本社会が、はたまた国際社会が許容するのかという問題である。いーや、許容というレベルではダメである、人間社会が「なんとか是非研究してほしい」と熱望しているのか、いな
いのか、という問題である 人間社会が熱望していなければ研究は決して飛躍しないからだ。

奇想天外な科学研究

 

 話が夢のない方向へ流れてしまった。若い研究者を鼓舞しなくてはイケナイ。ここで1つ、画期的な話をしよう。例えば「ヒトの精子をチンパンジーの卵子に受精させて、チンパンジ
ーに生ませた子は、ヒトかチンパンジーか新しい生物種か?」。

 こういう実験はもちろん倫理上の問題はあるけれど、そもそも技術的に可能なことなのか?可能だとすると、人間社会にどういう利益や損失をもたらすのか話が急にトンデモなさすぎ
たかもしれないが、世間を騒がすセンセーショナルな研究を考えたいのである。

 このようなトンデモ話を扇情的に書くのは、 の…好みである。しかしここは1つ/‘科学的”に整理してみたい。その格好の材料はSF、つまり空想科学小説(サイエンス・フィクシ
ョン)である。“科学的”といっておきながらSFとはないもんだ、とあきれる読者もおられるだろうが、SFもバカにしたもんではない。考え方によれば、独創的アイデアの宝庫というか
、アイデアと独創性が勝負の世界なのである SFの世界にもいろいろな分野があるが、ここでは「バイオ」に絞って、どんなアイデアが語られているのか、バイオ研究者から見て現実
的な項目だけをさぐってみた。

 二コルス(P。 Nicholls)の本2)は, 1983年出版と少し古いけど、SFに描かれた「バイオ」の可能性を冷静に分析している。彼の分析を土台に、 現代風に追加、説明、アレンジをして
みた。そうすると、SFの世界で「バイオ」を扱った項目は13項目になる。なお、透明人間はどう甘く考えても科学的に不可能なので除いた。ガリバー旅行記のような普通の人間の50
倍も大きな人間とか、逆に50分の1の小さな人間とかも、非科学的なので除いてある。

 13項目のうち、「人工臓器」、「遺イ云子工学」、「人間工学」などの数項目は’83年にすでにその一部が実現していた。「不老・不死」も「不老・不死」と断定すると達成できてい
ないが、ここ50余年の問に日本人の寿命は約25年も延びているから、現実の世の中は「不老・不死」の方向に大きく進んでいることになる。

 各項目を1つ1つ説明しているスペースはない。どれも大きく実現しつつある。もちろん、進歩の長短はあるし、進む方向は、当初考えていた方向ではないかもしれない。しかし、人
類の最終(?)目標に近づきつつある。空想の世界で望んだことが現実になりつつあるのだ。

 そういうセンセーショナルな世界とは無縁に、今日も1日DNAを切ったり貼ったり、細胞を染めたり、ビン洗いに明け暮れたりしたキミは、まもなく新世紀を迎えるというのに、いった
い何をやってるのか?目標にまっしぐらに飛びかかって研究する気はないものか?ナニ、そんな空想科学小説などもち出してインチキくさい、とあっしゃるか。

不肖ハクラク著より