言葉をしゃべる脳

 

 イヌやネコでも、いくつかの鳴き声をなきかけている。別府近郊の高崎山のサルの叫び声には32種類に区別できるという。

 しかし、動物の声は、鳴き声、叫び声であって、私たち人間が話す言葉ではない。

 ダーウィンの進化論を推進したへッケルは、進化の段階を22にわけ、20番目に類人猿をあて、最後の22番目に人類をあてだ。そして、中間の21番目に、ピテカントロプスとい
う仮想の動物をあてている。ピテカントロプスは猿人であり、アラルスは言葉を話さないという意味である。

 言葉を人間の特徴としてとりあげたへッケルの思想は、言語学フンボルトの「人間はただ、言葉によってのみ人間である」という表現によって、最も端的にあらわされている。声の
本質 ところで、人間をけじめあらゆる動物は、集団を作って生活している。そして、集団の営みは、集団構成員の間にコミュニケーションがあって、はじめてその目的示達
せられるはずである。

 心の内容を仲間に伝えるコミュニケーションは、表情や手足の動作による行動的伝達と、声による音声的伝達とにわけられる。たとえば、ミツバチが蜜のおり場所を仲間に知らせる、
ミツバチの言葉=尻ふりダンスは前者であり、トリの囀り、ネコの鳴き声、人間のぼ葉は後者であ


 集団生活の使命は、個体維持と種族保存の生命活動を能率的に行なうことであるから、伝達の働きは、その手段がなんであっても、この二つの生命活動に密着していなければならない
。音声的伝達の本質も、当然ここにあるはすである。

 動物の鳴き声や叫び声は、すべて基本的生命活動に密着したものといってよい。しかし、私たち人間は、もっと高等な構神活動を伝達する働きをもった声、すなわち言葉を話すことが
できる。人間は、約束にもとづき、一定の形式にのっとって組立てた声の連鎖、すなわち言葉を作り、文章をあみだし、言葉の文化を形成し、それによって、集団生活をより豊かにして
いる。言葉が、高等な構神活動のシンボルといわれるゆえんである。

 ジャクソンは、私たちが話寸言某を、情動的な言葉と知的な言葉にわけでいる。前者は、基本的生命活動に密着した性質のものであり、後者は、高等な構神活動のシンボルとしての性
格をもったものである。この区別によると、動物の声は、すべて情動的なものであり、人間の言葉は知的なものであるといえよう。 しかし、入間の声にも、その本質である情動的な性
質を否定することはできない。特に、泣き声だけを伝達の手段に使っている赤ん坊の声がそうである。

 ただ泣き叫ぶだけの赤ん坊も、一ヵ月もたつと、空腹を訴える泣き声や痛みを訴える泣き声などに分化してくる。しかし、まだ情動的な声であることにはかわりが』ない。

 生後三ヵ月ころになると、大脳皮質(新皮質)の発達に支えられて、知的な言葉を習う準備態勢ができる。あらゆる性質の声をたす喃語期、自分で自分の声をまねる自己模倣期をへて
、すカ月ころから、意味のわからないままに、他人の声をまねる他人模倣期にはいり、さらに成長するにつれて、意味を理解しながら話す言葉の数がどんどんふえてくる。

 言葉の誕生と発達については、多くの調査があるが、平均的な目安は、上のようである。

 このような言葉の発達は、素質や性別によっても違うが、特に環境や教育に影響されるところが大きい。

 子供のころの、なみなみならぬ練習と努力によって身につけた言葉を、私たちはなんの苦もなく話している。しかし、その根底には、複雑微妙な脳の仕組みが働いているのである。

 言葉を話すには、主す相手の言葉をきき、その意味を理解しなければならない。そして、この理解のもとに、自分が伝えようとする考えを発想し、その内容を言葉として組立て、最後
に、これを発声器官の筋肉の統合的働きによって、声の連鎖に作りあげるのである。

 これらの働きが、大脳皮質で営まれていることはいうまでもない。そして、言葉を理解する働きが営まれる領域を感覚性言語野といい、言葉を話すための筋肉運動の統合が営まれる領
域を運動性言語野という。

 ところで、もし感覚性言語野がこわれると、相手の声はきこえても、その意味が理解できないから、どう返答してよいかわからなくなる。また、自分が話す言葉さえも、なにを話して
いるのか意味がわからない。従って、意味のわからない言葉を、べらべらしゃべるばかりで、意味のある言葉は話せない。これを感覚性失語症という。

 これに対して、もし運動性言語野がこわれると、喉頭や口の筋肉は麻痺していないから、声は自由にでる。しかし、ある言葉を口にだそうとしても、声を組立てて言葉にすることがで
きないから、結局、言葉が話せなくなる。そこで、これを運動性失語症という。

 言語野の発見 言語野の研究の歴史は、工で述べたように、ガルの骨相学の提唱にまでさかのぼる。ガルは小学生のころ、牛の目のような出目の友達が、語学の才にたけていることに
ばかに興味をもったのがきっかけになって、骨相学をあみだしたのである。そしてガルは、目の奥にあたる大脳皮質の領域には言葉の中枢があると考才万のである。

 ガルが提唱した骨相学をめぐる論争は、一八六一年四月す八日、ブロ、カが21年前から、Tanという言葉以外は全くなにも話せない運動性失語症の患者の脳の供覧にまで発展したので
ある。ブロ、カは、半年後にも同じような患者の脳を手にいれることができ、いずれも、左半球の第三前頭回の後半部がこわれていることを発見し、この場所が、言葉を話す筋肉の働き
を統合する領域、すなわち運動性の言語野と考えた。

 この主張に対して、当時かなりの反対があったが、引きつづき、同じようなことがみられたので、ブロ、カの中枢として、運動性言語野の存在が一般にみとめられるようになった。

 その後、10年ほどだった一八七四年に、ウェルニッケは感覚性失語症の患者の脳を調べる機会に恵まれた。そして、左半球の聴覚野をとりまく上側頭回と中側頭回の後方部がこわれ
ていることを発見し、ここで言葉を理解する働きが営まれると考えたのである。ウェルニッケの中枢とよばれている感覚性言語野である。

 ところで、動物には言葉がない。いきおい、言語野の研究は。専ら、失語症の患者の脳について行なわれていたのであったが、近年になって、ペンフィールドたちは、実験的に言語野
の研究をけじめ、きわめて貴重な成果を収めたのである。

 ペンフィールドたちは、型のように、破壊と刺激の実験法を使った。すなわち、破壊によって、言葉に障害がおこる領域を丹念に調べる一方、患者に言葉をしゃべらせている途中で、
電気刺激をして、言葉が乱れたり、不明瞭になったり、しでへり方が遅くなったり、あるいは、しゃべらなくなったりするような場所を探したのである。そして、その結果をまとめたの
が図47である。

 三つの言語野 ます声をだすという働きであるが、運動野の下方の囗や喉頭の運動を司る領域で営まれている。たしかに、この領域を電気刺激すると、言葉にはならないが、声だけを
だす。なお、声の調節は、この領域にフィードバックされる感覚の情報によって行なわれている。ただし、発声筋には筋紡錘はほとんどないから、声の調節は、主として耳からの情報に
よって行なわれている。生れつき耳のきこえない人が、調すはすれのした声をだすのは、このせいである。

 言語野の位置は、ブロ、カやウェルニ″ケが設定した場所と一致しているが、その範囲はかなり広くなっている。ペンフィールドは、半球内側面の補足連動野に、第三の言語野を設定
した。そこで、三つの言語野を、図のように、前、後、上言語野と名づけている。なお、上言語野は運動性の言語野であるが、その役割は、前言語野より小さい。前言語野に対して補助
的に働いているのであろう。

 なお、ほかの連合野と同じように、これらの言語野も、それぞれ視床の核と緊密な線維連絡があって、両者の相互作用によって、それぞれの働きを営んでいるのである。

 非常に興味あることは、右利きも左利きも、言語野は、手の利音脳とは無関係に、ほとんど左半球にあるという。次の表がそれをはっきり示している。

 それでは、言語野に対応する右半球の領域では、どんな精神が営まれているのだろうか。後言語野に対応する右半球の領域では、自分の身体の形や空間における位置を知覚する働きが
営まれていることがわかっている。しかし、前言語野の対応領域については、まだはっきりしていない。

 言語野が病気でこわれたり、手術で切りとると失語症がおこる。この場合、古言語野がこわれても、ほとんど影響をおこさない。前言語野がこわれると、一時、言葉を話すのに障害が
おこるが、やがて回復する。ところが、後言語野がこわれると、回復が非常にわるい。しかし、言語野の損傷が、二歳以前におこった場合には、右半球で完全に代償されるのであろう。
全く言葉に障害はあらわれない。

 損傷後の回復が、なぜ後言語野でわるいのか、その理由はわからない。あるいは、右半球における前言語野の対応領域には、きまった働きが営まれていたいから、代償する能力がある
のに対して、後言語野の対応領域には、はっきりした働きが具かっているために、代償するゆとりがないためとも考えられる。