大脳辺縁系

 

 嵐も吹けば雨も降る、陸上の変転きわまりない環境のなかで、雨ニモマケズ、風ニモマケズ、たくましく生活を営むために発達しだのが、陸上の脊椎動物の前脳である。

 ところで、基本的生命活動である個体維持と種族保存の営みは、水中生活では、主に味覚がその案内役をつとめている。それが、陸上の生活になると、嗅覚によってとって代られる。

 陸上の脊椎動物の前脳が、嗅覚系を中心に発達したこと、特に、嗅覚動物といわれているものでは、嗅覚系が、脳のなかで広い場所をしめていることが、この間の消息を如実に物語っ
ている。そして、古くから、嗅覚に関係した領域が、嗅脳とよばれているのも、故なきことではない。

 しかし。視覚が嗅覚にとって代った人間のような視覚動物では、視覚系が発達したために、嗅脳の占める比率は、非常に小さくなっている。とはいっても、スクラ″プにして廃棄され
たわけではない。それどころか、イルカのように、嗅覚の感覚器のない動物でも、嗅脳とよばれる領域は厳然と存在している。

 そうなると、嗅脳とよばれている領域は、嗅覚以外に、もっと重要な働きをしているのだろの大脳皮質は、ほとんど旧皮質で、古皮質は ゜痕跡的である。両生類になると、古皮質が
できているが、新皮質はまだ痕跡的である。爬虫類になってはじめて新皮質があらわれてき、さらに高等になるほど、新皮質の領域が広くなってくる。そして、人間の脳では、大脳半球
の外側面は新皮質ですっかりおおわれ、旧皮質と古皮質は、半球のなかに閉じこめられたり、底面に押しやられている。

 このような三つの皮質の発達の模様は、人間の胎児の脳の個体発生の過程でもはっきりみることができる。 旧皮質、古皮質へ上行する神経路は、中継核である視床下部へ中脳から二
つの東になってはいっている。そこで中継されて旧皮質や、古皮質へゆくのであるが、一部は、視床下部の乳頭体から、視床を通って中間皮質へいっている。なお、この神経路は、さき
に述べたパペ。ツの情動回路の一部分を構成している。

 目から上行する神経路が、脊髄から上行する神経路とは別の経路を通って、外側膝状体で中継されて新皮質の視覚野へ到達しているように、嗅覚の神経路は、視床下部を通らないで、
その前方にある核で中継されて旧皮質へ上行している。

 なお、嗅覚の神経路は、いうまでもなく、嗅覚のインプルスを伝えているが、中脳から視床下部を通って上行する神経路は、主として、痛みや内臟感覚のイングルスを伝えている。従
って、新皮質へ上行するイングルスが、判別性感覚の性質が強いのに対して、旧皮質中古皮質へ上行するイングルスは、原始感覚の性質が強い。

 新皮質は、運動の領域から下行する運動神経路によって、その働きを筋肉運動として現わすのであるが、旧皮質辛古皮質は、そこからでる下行路によってその働きを現わしている。た
だし、新皮質と違って。筋肉運動のほかに、内臓器官にもその働きをおよぼしているから、新皮質系の下行路よりもずっと複雑になっている。

 大脳辺縁系の下行路は、次の三つに大別できる。

 一 古皮質から、視床下部の乳頭体を通って中脳へゆく下行路。

 二 内側前脳東とよばれるもので、旧皮質と古皮質からでて、皮質下核や視床下部(外側視索前野、外側視床下部)で中継されながら中脳へゆく下行路。

 三 中隔核中扁桃核からでて、手綱核を通って中脳へゆく下行路。

 中脳へ下行したこれらの線維は、中脳にある運動神経系や自律神経系の核とシナプスしてい る・また・中心灰白質(中脳水道の周囲にある核)のまわりに、下行線維の一部が集って
、網様 体から視床へゆく網様体賦活系の上行線維とがらみあっている。このからみあいの領域は、辺縁中脳野とよばれており、大脳辺縁系が視床下部を介して、新皮質へ働きかけてい
る仕組みが行なわれている場所と考えられている。

 なお、新皮質と旧皮質、古皮質の間には、中間皮質を仲だちにした線維連絡がある。

     ウサギとネコ、サルと人間の大脳半球の内側面を、同じ縮尺で描き。

     大脳辺縁系の範囲(主として中間皮質)を示したものである。動物の脳の大きさはかなり違っていても、大脳辺縁系の範囲はあまり違わない。ただ、人間では、その範囲がす
っと広くなっている。それでも、脳令体の大きさに比べると、広くなり方が小さい。

 このことは、人間をけじめあらゆる動物に、共通な心の働きがあるとすれば、その座は、共通構造の大脳辺縁系に求むべきであろうことを示唆している。

 いずれ、あとの章で、大脳辺縁系で営まれる重要な働きの一つ一つについては説明するから、ここでは、全体の働きのあらましを総括しておこう。

 まず、新皮質と同じように運動発現の仕組みがある。しかし、ここでおこる運動は敏捷さの乏しい、おおまかな運動である。新皮質の運動野でみられるようなこまかい局在の体制はな
い。

 大脳辺縁系で形成される感覚も、新皮質のそれとはその性質が非常に違う。嗅覚や痛覚や内臓感覚のように、判別能力の乏しい、原始感覚の性質が強い。

 いずれにしても、大脳辺縁系で営まれる運動の感覚は、個体維持と種族保存の営みを推進する、本能的な心の形成と具現に直接に関係している。

 旧皮質や古皮質からでる下行路が、内臓器官の働きを統御する自律神経系の中枢的役割をしている視床下部で中継されていることから、大脳辺縁系は自律神経系に対して、さらに上位
から調整的、統合的に働きかけていると考えられる。実際に、刺激や破壊によって、呼吸、循環、消化吸収、排泄など、あらゆる自律活動に多彩な反応効果が現われることがみられてい
る。アメリカの脳生理学者は、この働きを強調して、大脳辺縁系を内臓脳とよんでいるくらいである。

 大脳辺縁系の一番特徴ともいうべき働きは、個体維持と種族保存の基本的生命活動をたくましく推進する欲求の心を形成することである。本能とよばれている心であって、食と性と群
居(集団形成)の本能の心の座と考えられている。

 これらの本能の心は、視床下部を通って上行する感覚のイングルスや、視床下部にある体液性の変化を感受する細胞群から上行するイングルスによって形成され、そしてその心は、皮
質下核や視床下部や中脳を通って下行する神経路によって、運動、動作として具現される。

 ところで、これらの本能的欲求は、その欲求が満たされているか、それとも満たされていないかということを、知る心があってはじめて達成されるわけである。その心は、快感と不快
感であって、欲求が満たされると快感を覚え、欲求が満たされないと不快感を覚え、さらにこうじると怒りの心になる。このような心の動きを、情動とよんでいるが、実は、大脳辺縁系
は、この情動形成の座にもなっているのである。タ、ナ、は、大脳辺縁系を情動脳とよんでいるが、この働きを強調したものである。

 情動の心にかりたてられて、本能的欲求を満たす場合に、対象をみとめ、相手を知ることができてはじめて欲求は能率的に満たされるはずである。つまり、印象の記銘とその再生、つ
まり記憶の仕組みがあってはじめて可能なことである。さきに、新皮質の側頭葉が記憶の仕組みに関係していると述べたが、印象が貯えられる場所は、古皮質を中心にした領域であるこ
とが、人間や動物について実験的に証明されている。

 以上のようないろいろな働きは、総括して心とよぶことができよう。しかし、新皮質で形成される、精緻、微妙な精神活動に比べると、異質な内容をもった、きわめて素朴な心、ある
いは下等な心といえる。しかし、この心が、基本的生命活動の推進に結びついているという意味では、基本的な心といえよう。そして。この心は、新皮質がまだ発達していない赤ん坊の
心のすべてであり、あるいはまた、ゴルフが大脳皮質をとったイヌの行動を操る心そのものである。あるいは、ベルグソンのいう「内密の自我」、フロイトのいう「深屑の心」に対応す
るともいえよう。

 ところで、その内容、性質がどうであっても、心が働く状態は、意識という言葉で表現することができる。大脳辺縁系の心は、新皮質の構神活動とはおよそ異質のものであるから。そ
の働きを表現する意識の状態も、当然異質であるはすである。両者の違いをどういう表現で区別するか。人によって意見は違うだろうが、新皮質で形成される意識を、明敏な意識といい
、大脳辺縁系で形成される意識を、素朴な意識という提案は、わりに妥当なように思える。